マーケット感覚について

ビジネスアイデアの話で問題なのは、市場性の検討もさることもさることながら、やる人がそれを、一生涯の仕事にする覚悟があるか、というところだと思う。たとえ結果的には途中で転業することになったとしても、事業を起動させるにはその覚悟が必須のような気がする。

「男子一生の仕事たるか、みたいな古臭いことをいうな。何でもものは試しでやればいいんだ」という考え方もあるが、裕福な企業の社内ベンチャーならいざしらず、個人が自己資金や借入れ金を投資して事業を始める場合は、「市場性」以上に「覚悟」の自己検討が重要だと思う。

ビジネスコンサルタントという立ち位置なら、たんなるアナリストやアイデアマンであれば足るのかもしれないが、実際にそれを形にすることを目指して行動するには、得体の知れない熱を帯びた能力(なんだかよくわからないが)が必要なのだろう。それは下町におでん屋さん一軒開業するにも必要な力だ。

売るものがあり、買う人がいて、代金を回収する手段があれば、ビジネスは成立する。そして、インターネットがこの三条件をそろえるハードルを飛躍的に低くした。だから起業して失敗しても、さしたる深手もなく引き返せる、という主張にも一理はある。

そもそも自分がこの文章を書き始めた動機に立ち返ると、起業や職業選択にあたって「マーケット感覚」というのは当然ながら必要ではあるが、ここにフォーカスしすぎると何か重要なものを釣り落とすようなきわどい陥穽を感じ、それを自分なりに考えてみたいと思ったからだ。

かつて「レッドオーシャン(過当競争市場)ではなく、ブルーオーシャン(閑散市場)を目指せ」とか「プロダクトアウト(商品開発先行型)ではなく、マーケットイン(ニーズ優先)であれ」とか言われていた路線の延長線上に、「マーケット感覚」重視思考があると思われる。

しかし、そもそも「どこに空き地があるだろうか」とか、「誰が買ってくれるのだろうか」とかキョロキョロする態度を続けることで、マーケティングにおいて一番重要な商品そのものの地力を脆弱にする危険性はないのだろうか。これはブログの主への反論ではなく、あくまで自問自答なのだが。

現代においては、相当な社会的影響力がある人が、「自分探しなどやめてさっさと割り当てられた仕事をしろ。そこで自分の正体を思い知るのだ」的な言説を披露している。ただ、この種の発言はあくまで逆説をもって真理を突くものであって、額面通りに信奉すべきものではない。

結婚に相性があるように、職業には適性がある。これは当たり前の話だ。「誰と結婚しても結婚なんて同じ」ではないし、「どんな職業でも仕事の本質は同じ」ではない。どんなに苛酷な競争があろうとも、自分に野球選手の適性があるのならばそれを目指すべきだし、歯科医だって同じことだ。

陳腐な正論を吐くようだが、仕事を検討するにあたって、社会のニーズや成功可能性よりも、自分自身が真にやりたいことや自覚している自らの適性を優先して考えることは自然なことだし、よほど重要なことに思える。そのための「自分探し」であたら人生を浪費しようともそれはそれで一つの生き方だ。

その日の食うものにも困っていたような時代には、「自分探し」とか「自分の適性」など甘っちょろいことをいってられなかった。それこそ生まれ合わせた境遇や社会のニーズに自分を合せる以外無かったが、幸いなことに現代はそういう時代ではない。その僥倖を、存分に享受してもバチは当たらないだろう。

そもそも、「社会のニーズ」を嗅ぎ分け、「当たる」職業や事業を選別することは途方もなく難しいことではかなろうか。奇抜でユニークな思い付きならいくらでも出すことができようが、それが現実社会の中で成立するか否かは、究極のところ「やってみなくてはわからない」のだ。人間はそんなに賢くない。

社会主義経済における「計画経済」の破綻も、人間の「理性(賢さ)」というものに対する過度の信用あるいは信仰が落とし穴になったものだ。国家の最高頭脳たちが集まり、何回も「5か年計画」を繰り返してことごとく失敗したことが明らかにしているのは「いかに人間の理性が当てにならないか」である。

理性的に情報収集をし、分析をし、合理的に思考すれば、たちどころに未来のニーズが見えてくるというのは一種の信仰である。そんなことが出来る人がいるとすれば、その人はそういう才能を生まれながらにして持っていた天才である。天才には方法論はなく、普遍性はない。ただそこに存在しているだけだ。

ながながと書いてきたわりには投げやりな感じになるが、結論づければこういうことになる。「マーケット感覚は確かにあった方が有利だろうが、それがあろうがなかろうが、仕事の成立は究極のところやってみなくてはわからない。だったら、個々人はそれぞれやりたいようにやるしかないではないか」と。