ユニーク性と真実性

人間の言説は、内容のユニーク性と真実性に着目すると四つの種類に分けられる。

①内容はユニークだが、真実では無いもの
②内容はユニークでは無いが、真実であるもの
③内容にユニークさは無く、真実でも無いもの
④内容にユニークさがあり、真実でもあるもの

①は例えば「ゆうこりんはコリン星からきた愛の妖精です」というようなもので、内容はとても珍奇だが、残念ながらそれは真実ではない。

②は例えば「人類は平和のうちに共存しなくてはならない」というようなもので、内容は言い古されて陳腐だが、それはまごうことなき真理である。

③は例えば「日本にとってはアメリカだけに媚びへつらうことが最大の安全保障である」というようなもので、内容にオリジナル性がない上にビジョンとしても誤りである。

この三つのうち、ハシにもボウにもかからないのが③で、①はエンターテイメント性があり、②には普遍的な真理が説かれているというそれぞれの意味において、一定の存在価値がある。

最もそれを吐くのに当たって高度な知力が必要で、加えて社会的価値や影響力があるのは「④内容にユニークさがあり、真実でもあるもの」である。世の表現者や著述者や研究者はそこだけに狙いをつけて日々頭を悩まし、研鑽を重ねている(と思う)。ことほど左様に、視点や表現に独自性を備えしかも内容的にも真実を突くことは、難しいのである。

また、真実を鋭く突くと自ずからオリジナル性が出てくるという逆の現象もある。こういうことを考えているとき自分の頭にいつも浮かんでくるのは老子の「道の道とすべきは常の道にあらず」という言葉である。この言葉は「真理は、皆が思いこんでいるようなものではない」という意味だ。

これを噛みくだいて言うと、「本当の真実・真理・事実は、普通の人たちが思いこんでいる常識や生活感覚とはかけ離れたところに息づいている」ということである。(もっとややこしくなってしまったかもしれないけど)

湯川秀樹氏はこの言葉を物理学の発展の歴史に援用して、通常の人間の生活感覚が通用するニュートン以来の古典物理学から、それが通用しないアインシュタイン以後の量子力学への脱皮を思わせる、と述べている。

アインシュタインは何も奇矯な新説をぶち上げて世間を騒がそうとしたわけではない。脇目もふらず、ひたすらに真理を追求していて、気づいたら誰も足を踏み入れたことがない真理の沃野に一人たたずんでいただけだ。上述した④の「内容にユニークさがあり、真実でもある」とは、まさにこういうものを指す。

アインシュタインほどの人類史に残るような偉大な発見ではないにしろ、凡夫にも、ユニークな真実を見つけだしそれを表現するチャンスは皆無ではない(と信じたい)。すくなくとも、何か社会的な発信をするときに、それが果たしてユニークな意見なのか(多くの人が似たようなことを言っている内容ではないのか)、それが事実・真実・真理なのかの二つの自己検証は、できるできないは別にせよ、つねに心がけておくべきだと自分は考えている。

ただ、こういうことも考える。人間にとって本質的なこととは、「②内容はユニークでは無いが、真実であるもの」に尽きているのではないかと。長いあいだ同じことがいわれ続け、現代においても多くの人が実感を込めて話していることこそが、人間にとってほんとうに大切なことなのではないか、と。しかしここでそれを論じ始めると話が混乱するので、ここまでにとどめておくことにする。