第三者の目とは

 ずいぶん昔のことになるが、ネット上でマルクス主義者の人と社会のあり方について言葉のやりとりをしたとき、議論がことごとく噛み合わなくて、「なぜこんなにも噛み合わないのだろう」と不思議に思ったことがある。

今にしてみればその答えは明らかだ。こちらとしてはいろいろな社会思想を俎上にあげて、どういったあり方が人びとを幸せにするのかを見いだそうとしていたのだが、彼はマルクス思想こそが唯一絶対であることが大前提としてあり、そのことをいかにこちらに納得させるかが目的化していたからだ。

つまり、こちらは一つの真実や真理にたどり着くための「ブレーンストーミング」をしている気分だったのだが、彼の方は私をやり込める「ディベート」をしている気構えだったのである。

こういう対話する二者間の決定的な齟齬は、実社会でもよく起きる。たとえば会議の場で交わす議論において、一方はよりよい結論を導くためのアイデアの出し合いとその相互検証の場だと考え、もう一方は会社(社会)における自分の立場を守るための戦いの場だと思いこんでいる場合などがそうだ。

また、会議の初めはお互いに良いアイデアを出し合う場だと考えていたのだが、だんだん雲ゆきが怪しくなり、お互いがその場を制圧するためにのディベート(というより口げんか)に変容し泥沼化する、ということもある。

「ここはなんとしても自分から引くことができない。どんな無理筋なことを言っても、相手をやりこめて黙らせるか、議論を空中分解させ結論をウヤムヤにするしか、自分が生き残る道はない」と双方が覚悟を決めたときの「議論」ほど不毛なものはない。

政治家が議会の場で交している「議論」などほぼ100%がこの段で、もとよりそれぞれに死守しなければならない立場があり、議論の場で相手からどんな説得的な意見を言われたところでそれを受け入れる意思など毛頭無いという状況下で交わされる議論に、何か発展的な結論を期待する方が間違っている。

とはいえ、こういった「議論」には、それが公開で行われている以上それなりの意味がある。それは双方に利害関係がない第三者の冷徹な目には、その勝敗(あるいは引き分け)は極めて明らかに映るからだ。そしてその結果は、いずれ時間の問題で「勝者」に有利に働くことになる。第三者の目にさらされている以上、水掛け論は水掛け論では終わらない。(例えば、いかに安部首相がその場しのぎの答弁に成功しようとも、彼の主張が無理筋であることは一定以上の識見のある人なら誰もが見抜くように。)

逆に言うと、公平なスタンスの聴衆がいない場で、自分の立場を守りあうディベートは決して行ってはならない、ということである。やりたければやってもいいが時間と精神を消耗するだけ無駄である。このことが判っていない人が本当に多い。会議室に二人きりでこもってのガナリ合い、子供が寝静まったあとに居間で繰り広げられる夫婦喧嘩など「第三者の目にさらされていない」という、ただそれだけで愚行だといえる。

「そんなみっともない姿を第三者にさらせるか」というプライドはこのさい邪魔にしかならない。その点では、その「みっともない姿」を日常的にさらして平然としている政治家の厚顔に、私たちは少し学ばなくてはならないだろう。