「美味しんぼ問題」で表現の自由を考える

●「表現の自由」は、本来、国民どうしが認め合うものではなく、国家権力の干渉を規制する主旨のものだ。これは、戦前の国家権力による言論統制へのアンチテーゼとして生まれた経緯がある。

●ここでいう「表現」とは「(公序良俗に反しない)思想や感情」のアウトプットのことである。つまり知的財産権でいうところの「著作権」の範疇の話であり、科学的な見解や研究成果の開陳と共有化、つまり「特許権」の範疇の話ではない。

●これは、「科学的見解や研究には『表現の自由』はなく、国家統制の監視下にある」と言う意味ではなく、そもそも、国家はそれらについては「統制も擁護もしない」というのが基本姿勢である、という意味である。(ガリレオ裁判があったような中世までさかのぼれば話は別だが)

●一方、表現(思想や感情のアウトプット)については、国家は「統制はせず、擁護はする」という立場になる。つまり若干乱暴になることを承知の上で図式化すると以下のようになる。

・表現(思想や感情のアウトプット)→著作権に関連→国家は統制せず擁護する
・科学的知見・法則性→特許権に関連→国家は統制も擁護もしない

●戦前でも科学的真理の探求は(不敬にならないかぎり)国家統制の対象外だった。科学技術力は国富や軍事力増強への貢献が大きいので国家が統制する理由はない。国家権力は、自国の官民における科学的技術の創発的発展を祈念するのが基本的な立場だ。そのためには、統制によって複雑系から生じるエントロピーの炎を消してはならないことをちゃんと認識している。

●科学的真理の探究は「(国家による)表現の自由(の認可)」の埒外にあり、戦前も戦後も、国家は国民の科学的探求を、その有用性に応じて援助こそすれ、統制はしない。ようするにほったらかしだ。ドクター中松永久機関の研究だってどうぞ好きなようにやってください、である。荒唐無稽な研究に対しては、国家は特許も与えず、補助金も出さず、黙殺するだけだ。

●その代わり科学的知見は、国民どうし、業界人どうしの相互検証につねにさらされているのであり、見方によってはこちらの方が官憲によるザル監視より、よほど厳密でもある。今回の件で、雁屋氏と編集部がさらされているのはこの「国民どうし、業界人どうしの相互検証」である。この風圧がどれほど厳しくても、「表現の自由」を持ち出して国家に泣きつくことはできない。

●以上のような理由で、今回のような、科学的な因果関係を指摘した雁屋氏の原作を擁護するのに「表現自由」を持ち出すのは適当ではないと自分は考える。たとえアウトプットの形式が漫画であっても、それは同じことだ。例えば、もしかの小保方女史がコマ割をしフキダシを付けた漫画形式で「STAP細胞物語」を書いて、これを「表現の自由」を盾にその言説への反論を封じていたらおかしなことになってしまう。

●つまり、科学的因果関係に関する言説をアウトプットした以上、たとえそれが漫画という表現形式であったとしても、「表現の自由」を隠れ蓑にすることはできない、ということである。

●問題にすべきは、「福島において放射能に起因した鼻血が発生している」という仮説が事実かどうかである。それについては、自分にはわからない。事実かもしれないし、事実ではないのかもしれない。それについては判定する情報収集力も科学的知見も、自分にはない。

●しかし、たとえその言説が真実・事実であったにしても、問題が残る。もはや一種の「権威」である長寿人気漫画でそれを言明することがもとより被害者である「福島」の住民をセカンドレイプ的に(この比喩は不穏当だが他に伝わる言い方がみつからないのでご容赦ください)追いつめる帰結になることを雁屋氏が予期していたかしていなかったか、といえば、自分はおそらく「予期していなかった」のではないか、と考える。(この「考え」には根拠がなく、ただそういう気がするだけだが)

●ただ、政治家がこの問題に頭を突っ込んでくるのは本当に見苦しいし、本来するべきではない。これを政府高官や大臣がやると、法的にはともかく、事実上の科学的アプトプットへの国家統制になりかねないし、「福島」をかばっているように見せかけた原子力行政の復活や原発利権の擁護だとしか見えないから。(実際、そうなんだろうが)

●もはや「ならず者集団」にしか見えない安倍一派が雁屋氏を攻撃することで、かえって世論は雁屋氏になびき、「鼻血」の因果関係の精緻な検証や、雁屋氏の「セカンドレイプ」がうやむやになってしまうのではないか。自分にはそっちのほうが気になる。