洋画家たちの青春 -白馬会から光風会へ

東京ステーションギャラリーに「洋画家たちの青春-白馬会から光風会へ」展を見に行く。以下はいいなと思った作品。

岡田三郎助「縫いとり」

和田英作彦根内湖」

小磯良平「横臥裸婦」

中村研一「秋花」

小林萬吾「富士」

その他、中西利雄「花」、三宅克己「風景」は画像みつからず。

そのあと、書店で写実絵画の画集を立ち読みする。まるで写真のような絵を見て、まるで写真のようだな、以外の何の感想も浮かばない。きっと写真と首っぴきになりながら描いたんだろう。だったら、はじめから写真を飾ればいいのに。あえて絵にする意味がさっぱりわからない。

芸術作品には、多かれ少なかれ、作者のメッセージが込められている。写実絵画にこめられたそれは往々にして「おれの腕前を見てくれ」であり、その自己顕示性が、ある種の「騒がしさ」を観る人に感じさせる。

この「騒がしさ」はいかにモチーフが静謐でも立ちどころに顕れる性質のもので、写真とみまごうようなリアリズム絵画が(すくなくとも日本において)いま一つ市民権を得ていないのは、その騒がしさが厭われるゆえだと自分は考えている。端的に言うと、こういった騒がしい絵は、部屋の壁に掛けて眺める気がしないのである。

芸術作品を鑑賞する愉しみは「作者の心理をなぞらえること」ではないか。作者の観察眼や、発想と創造の作法に鑑賞者が同期し得たとき、鑑賞者は、その過程で作者が味わった愉楽のうち幾ばくかを分け与えられる。

リアリズム絵画の鑑賞は、プロ野球の試合を観たり、サーカスで曲芸を観たり、早弾きのピアノ演奏を聴くのに似ている。そこにあるのは訓練された身体芸への驚嘆あるいは感心であり、プレイヤーへの同期ではない。(同期できるとすれば同業者あるいはそれに近いキャリアを持つ人間だけだろう)

もちろん、それはそれで観る価値があるのだが、絵画鑑賞の本来的な愉楽とは毛色が違うように思える。

人間が肉眼で対象を見て、それを手を使って表現する以上、写真では表現できない何ものかを表現されていなくては意味がない。たとえば緻密な愛着とか、創造的な取捨選択とか、表現上のアイデアとかがそれにあたる。

作者がモチーフを目の前にしたときに何を感じたのか、あるいは何を見抜いたのか、絵画のテクニックとはそれを過不足なく観る人に伝えるためにある。作者が感じたことが深ければ深いほど、人間の感受性の深い水脈に到達することになり、結果、それは時間や空間や文化を越えて幅広く受け入れられる「すぐれた作品」ということになるだろう。

「何か見落としていることはないか」と、すみからすみまで鵜の目鷹の目で描き写そうとする写実的作品には、その精密さゆえに作者の感受性を糊塗する働きがあるのではないだろうか。