ザビエルの嘆き

 自宅から最寄り駅までの通勤の路上で、地味な風体の男性あるいは女性が、キリスト教の本を積み上げた台の横に立っているのを、自分は時々目にする。一種の販売をかねた布教活動であろう。

以前、その販売員をぼんやりと見ていたら、向こうからにっこりと笑みを返されたことがあり、それ以来、そういう人には、一瞥もくれずにその横を通り過ぎることにしている。目が合った人から微笑みを投げかけられて無表情で応えるのは心苦しいし、かといって、こちらが笑みを返していたら、相手は信者仲間だと思うかもしれない。自分はそんな誤解をされたくない。

現在日本国内のキリスト教信者は人口の1%にも満たない、といわれる。フランシスコ・ザビエルの伝導以来、三百年をゆうに超えているのにもかかわらず、なぜキリスト教は日本に根づかないのか。その理由を分析する知識も教養も自分にはないが、キリスト教教義に対する違和感は、自分の皮膚感覚として割とはっきりとした形で存在していて、それを一言でいうと「なんだか嘘っぽい」ということになる。(かといって、仏教や神道を本当っぽいとも思わないのだが、それはさておき)

とはいえ自分は、キリスト教的な気分やそれが醸し出すムードは決してきらいではない。自分はキリスト教系の幼稚園に通っていたが、そこで日々行われていた礼拝のおかげで、後年「敬虔」という純度の高い言葉の概念を理解するための核芯のようなものが、心の中に形づくられたと思っている。

芸術においては、ミレーの「晩鐘」の静謐な美しさや、バッハの音楽の深く荘重な響きや、ミケランジェロの天井画の壮麗な緻密さは、それぞれの作り手のキリスト教への深い帰依なくしてけっして生まれ得なかったものだ。また、自分は何年間かほとんどその小説しか読まなかったほど三浦綾子の作品が好きだが、それが読み手にもたらす深い感動もキリスト教への作家のゆるぎない信仰があればこそだ。

また、マックス・ウェバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の論理」で解き明かしたように、現代世界のビジネスのシステムを根底で支えているのはキリスト教的なフェアネスと勤勉さであるという側面でも、かの教えが果たしてきた世界史的役割は甚大なものがある。

しかし、それらの自分が好むキリスト教のムードやイメージと、街角に立つ聖書関連書物の販売員がまとっている異様な雰囲気には、同じ「キリスト教的現象」でありながら、両者の間には埋めようがない深い断絶があるように思う。

あえていえば、聖書販売員の立ちんぼうは、日本人がキリスト教に対してザビエル伝導以来感じ続けてきた違和感すなわち「いかにもな嘘っぽさ」増長させ、かえって布教の効果を損なっているのではないか。

更にいえば、彼らが彼ら流の傍若無人な「きょうも一冊も本は売れなかった。でも、こんな寒空の下で聖書の素晴らしい教えを広めようとしてがんばっている私を、神は必ず見てくださっている」的自己満足から脱しない限り、日本のキリスト教信者が増えることもないだろう。