女子力とは何か

 STAP細胞で今をときめく小保方晴子女史は、研究室の壁をピンクや黄色でいろどり、花柄のソファを置き、実験器具にはムーミンのキャラクターのシールなどを貼り、祖母からもらった割烹着で仕事をしていることでも話題になった。アニメのキャラクターを仕事場に掲示したり、規定の作業着とは異なる独自の装いで仕事をしている男も絶無なわけではないが、多くはトンマな世間しらずのレッテルを貼られ、実際の中身もそういう扱いを受けるにふさわしいくだらない人間であることが多い。(やや過剰な罵倒だが実体験に即してほぼ事実である。)

 男性に許されないことがなぜ女性には許され、それどころがチャームポイントとして賛美されるに至るのか、一見奇妙ではあるが、生得的な男女の性差を考えれば、実はそんなに奇妙なことでもない。

一昔前は、「男女の性差」みたいなことを言うと、ボーボワールだとか市川房枝だとか田嶋陽子だとか(いきなりレベルが下がるが)を持ち出されて、「封建主義的男女差別の残滓を見た」とか、「そういう偏見が女性の社会進出を阻害するのだ」とか、「女性を性玩具として愚弄している」とか即座に決めつけられて、筋金入りの男尊女卑思想の持ち主でもない限り男たちはその口吻に慄然と次いで悄然としたものだが、

そのような恫喝的言辞を操る威勢のいい先輩たちが、結果的には、女性である以前に人間としてちっとも充実した幸せな人生を送っているようには見えないことに気づいた後輩たちが、「自分たちは決して同じ轍を踏まない」というかたい決心のもとに産み出した言葉が、「女子力」だと自分は考えている。

「女子力」という言葉は、狭義の概念だと「男性一般にウケのいい言動や装いをする能力や覚悟の深さ」を指すと思われるが、自分は、この言葉の指向するするところはそんな薄っぺらいところにとどまらず、もっと深いところにあると考えている。それを一言でいうと「現実生活を愛でる力」である。これだとなんだかよく分からないので別の言葉を探すと、「自分を取り巻く環境をすべてホームにする力」である。これでもたぶん伝わらないので、冒頭に挙げた小保方女史に話を戻すと、

彼女が「女子力が高い」ゆえんは、職場という本来パブリックで峻厳な雰囲気が漂ってしかるべきアウェイの場を、「花柄」や「ムーミン」や「割烹着」を持ち込むことによって自分にとっての心地よいホームの場つまりプライベート空間に塗り替えて、その居心地の良さを踏み台にして、自分のポテンシャルを開発し、知的パフォーマンスを最大化したところにある。

この「アウェイをホームに変える」力こそが、凡百の男が逆立ちしてもかなわない女子力の本質である。専業主婦がサラリーマン夫を常に強力なパフォーマンスで圧倒できるのは、彼女たちが常にホームで戦っているからである。(一方の夫の多くは、日々アウェイでのイザコザに憔悴しているのだからてんで勝負にならない)

そして、そのセオリーをそのまま職場に持ち込んで能力を十全に発揮したのが小保方女史であり、世に「女子力が高い」と社会的(職場や学校や地域社会)に認知されている女性たちは、ほぼ例外なくこのセオリーを踏襲していると言っていいだろう。「女子力」の効力とは、単に公的空間を私的空間に塗り替える範囲にとどまらない。その効果的な行使は、ビジネスを進める上においても、きわめて有効に作用する。

ビジネスを進める上でもっとも重要なものは、知力でも発想力でもない。コミュニケーション能力である。もちろん知力も発想力も大切ではあるが、それらは不可欠ではない。たとえ素晴らしい知力や発想力があってもコミュニケーション能力が壊滅的な人は、芸術家になれてもビジネスマンにはなれない。この事情は研究の現場でもある程度共通している。現代においては、最先端の研究になればなるほどチーム力が重要であり、チームである以上成員のコミュニケーションの深浅が成果を大きく左右する現実は同じだからだ。

男性は知力や発想力において決して女性に劣るものではないが、コミュニケーション能力においては平均的にいって明らかに女性に劣っていると(自らを省みても痛切に)思う。そして、コミュニケーション能力の本質とは、「敵対する相手を降参させる力」ではなく、「他人を自分の身内に引き込んでしまう力」であり「アウェイの場をホームに変えてしまう力」のことなのである。

男性には乏しいそういった社会的に高度な価値がある力が、女性にはなぜ豊かに備わっている(ことが多い)のか。これについては、自分は明瞭な回答を持たない。ただ、そういうものなのだ、というしかない。逆に、「女性のポテンシャルを開発しパフォーマンスを最大化するにはホーム的環境を整えることが有効である」という社会的な了解もあり、よって男性には許されない「ムーミン」も「割烹着」も容認されるに至る(こともある)、というわけである。男としては悔しいことだけれど、それが現実なのだ。