「先生」とは何ものか

「先生が指導法を体系化したことや、演奏技術について細かく言ったことで、斎藤秀雄の教え方は機械的だ、と批判する人が時々いる。でもそれは全然違う。先生が僕らに教え込んだのは音楽をやる気持ちそのものだ。作曲家の意図を一音一音の中からつかみだし、現実の音にする。そのために命だって賭ける。音楽家にとって最後、一番大事なことを生涯かけて教えたのだ」(小澤征爾

自分が住んでいる地域に、一人の老い書道家がいる。この人は斯界からそれなりに存在を認められているらしいが、書は売れず、世間的には無名で、細ぼそと書道教室をいとなんで日々のたつきとしている。

この人は毎月一回弟子に向けた冊子を発行しており、その中にお手本として自ら字を書いているのだが、それを見る限り一種のくせ字で、上手いのかそれほどでもないのか、自分に判断がつかない。

もしかするとこの「先生」は、生徒にきれいな文字を書くコツを教える書道のインストラクターとしてはそれほどのものではないのかもしれない。しかし、この人には「求道」の精神がある。それだけは間違いない。

思えば、他人にモノを教える人間が、「インストラクター」か「先生」かに分けれる境目は、まさにこの求道の精神があるかどうかに拠る。

これがある人は、たとえ世間的にはインストラクターであってもりっぱな先生だし、逆にそれがない人は、たとえ世間的に先生と呼ばれていようがただのインストラクターにとどまる。

弟子が先生に学ぶのは、つまるところその「取り組む姿勢」に尽きる。どんな技術にせよ上達し円熟するには「独りで学ぶ」姿勢が肝要で、テクニカルに伝承できる範囲はきわめて限られている。

小澤征爾にとって斎藤秀雄は「先生」と呼ぶにふさわしい存在だったのだろう。技術を身に着けるには技術では説明できないある「精神」が必要で、斎藤が小澤に教えた要諦は、まさにその精神にあったのだ。

極端な話をすれば「先生」たりえるにはその技能の習熟者である必要はない。スポーツの一流の指導者がまるで選手としてのキャリアが無いケースがしばしばあるのは、この事情が一役かんでいる。逆にその精神を身に着けそこなった人は、どんなに選手としての栄光やキャリアがあってもよき「先生」にはなりえない。