わかりやすさという欺瞞

 わざとわけの分からない話をして煙に巻く狡猾さや、自分の理解が及ばない話をむやみに有難がる軽薄さは論外として、意味が明確な話をしてそれが聞き手や読み手に理解されれば足れり、というわけではない。

「わかりやすい話」には隠蔽や捏造や曲解などあらゆる誤謬や欺瞞しが含まれていると用心したほうがいい。詐欺師が人を騙すことが出来るのは、わかりやすい話をするスキルがあるからだ。

本来わかりやすい話を分かりにくく説明する稚拙さ(あるいは虚栄心)はさておき、本来わかりにくい話をわかりやすく説明するのは陥穽に満ちた行為だ。わかりにくい話はわかりにくく説明するべきで、さもないと、まるでわかっていない聞き手をわかった気にさせてしまうことになる。

しかし最近の風潮として、説明者や執筆者は「わかりにくい」と苦言を呈せられることを過度に恐れている。そのように聴衆や読者に評されることは、発信側の下準備やプレゼン力や知力が足らないせいだと認識される。「わからんやつはわからんでもよろしい」という開き直りに安住できるのは、そうとうな権威者か権力者か、あるいは教育者としての意欲を喪失した学校教師ぐらいになっている。

説明者は、この風潮にひれ伏すように、「わかりにくい真実の話」より「わかりやすいウソの話」をすることを選んでいる。そちらの方が社会的な評価や名声が得られやすいからだ。

「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ」と小林秀雄が「無常といふ事」の中で書いたのは昭和十七年だから、「解釈」つまり「わかること」を「わからないこと」より優先するのは昨今の風潮とは呼べないかもしれない。その中で、小林秀雄がこういう物言いをなしえたのは、当時彼がすでに斯界の権威者であったからか。そういうことかもしれないが、それだけとも言い切れないと思う。

物事を「わかる」には、それにふさわしい経験や知識の蓄積が必要で、それらが無いのに未知の情報を「わかった」気になることは、過去の経験や知識の中から、それに類するものをほじくり返して当てはめ、「ああ、あれに似たやつね。それならわかる」という安易な行き方をすることに他ならない。

「ああ、あれに似たやつね。それならわかる」というわかり方は、真実の意味における「わかった」とは似て否なるものだ。それは、せっかくの新鮮な情報や体験を、勝手知ったる過去の色彩で塗り込め、わざわざ古ぼけた外形に仕立て上げ安心しているようなものだ。

そういう「理解」をいくら積みあげたところで、その人の精神はすこしも涵養されないし、人生を豊かにすることもできない。

人間が、未知の出来事を既知の経験とすり替えることを好むのは、根本的な性質として「わからない」ことを恐れ、「わかっている」ことに安住したいという指向性があるゆえだと思う。

「わかりやすく説明する」スキルは、その需要に応えているという意味で市場性があることは確かだが、しかし、「人生を簡単に考えてみても、人生は簡単にはならない。(小林秀雄)」ことは肝に銘じておいた方がよさそうだ。

思考は合理的に進めなくてはならないが、合理的と効率的は違う。合理的思考とは、未知と既知が縦横に入り組んだ複雑な現実事象に対して、その細部まで蔑ろにすることなく四つに組み合うことであって、血肉を取り除いてスカスカになった骨組みを眺めて、効率的にわかった気分にひたることではないと思う。