★拉致と決断(蓮池薫) 【抜き書き】

自由は人生の目的を達成するための必要な条件であって、自由自体が人生の目的にはなり得ない。


興に乗じて歌う歌や踊りも、美の世界に浸って鑑賞する絵画や彫刻も、この国ではすべて指導者崇拝や敵対階級との血まみれの闘争、社会主義建設をモチーフにしなければならなかった。私は金日成元帥や金正日将軍を讃える歌や詩が、どうしてこんなにも幅広く多様に創作できるのかと不思議でならなかった。

思想はあくまで内面的なものだ。統治者は国民ひとりひとりの胸の内を開いて見ることはできないので不安に陥る。その不安を鎮めるために、思想を形として残そうといろいろな手だてを考える。しかし、その形となるものがかえってカモフラージュになって人の思想を見えにくくする。

お金は「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」という三機能を持つと言われるが、当時北朝鮮の貨幣は、明らかに交換の媒介として不十分だった。

彼女たちの結婚観は合理的だった。出身成分は何か、軍隊に服務したかどうか、党員かどうか、大学でかどうか、家にそれなりに財力があるかどうかなどの順で重視されていた。もちろん容姿や人柄も気にはしたが、あくまでそれは基本的な条件をクリアした上のでの話だった。

食糧危機は女性たちも変化させた。国からの配給や給料に頼ることができなくなり、子どもが飢え死にしそうになると、男たちの代わりに市場に出てものを売り、家族の命をつないだ。商売はまだ党によって厳しく統制されていたころだったが、批判の声には耳を傾けなかった。北朝鮮の女性たちが公然と党の指示をを無視したのはこのときが初めてだったと思う。彼女たちは市場で権力を笠に着て言いがかりをつけ、商売品をせしめようとする警察と闘ったり、「女性革命家」としてのプライドもかなぐり捨て、見知らぬ男性客に慣れない媚びを売ったりもした。だが、不思議なことに彼女たちの表情には、疲労感や羞恥心だけでなく、どこか生き生きとした輝きもあった。おそらく自分が家族の生活を支えているという誇りや自信、自分の意思と決心で商売ができることへの充足感のようなものが生まれていたのだろう。

(1966年のサッカーW杯でベスト8に輝いた)選手監督の帰国を待ち受けていたのは、歓迎の群衆や報償ではなく、厳しい制裁だった。多くの選手が罰としてユニホームを脱がされ、強制労働のために炭鉱に送られたという。その原因は「美人計(色仕掛け)」だったという。準々決勝の前日、選手たちが泊まっているホテルの個室に「敵」によって女性が送り込まれ、一晩をともにした若者たちは翌日の試合の後半戦に使うスタミナを使い果たしてしまったという。

「万寿無櫃(ひつ)研究所」=金日成の長寿だけを専門に研究する機関

93年3月、北朝鮮核拡散防止条約(NPT)から脱退したときに開かれた軍指揮官会議で、金日成は「アメリカとの戦争でもし負けたらどうする」という質問をした。場内は一瞬静かになったが、そのとき金正日最高司令官が立ち上がり、「首領様、地球を爆破してしまいます。朝鮮のない地球は必要ありません」と答えたという。

科学的社会主義を標榜する北朝鮮では)一般住民の葬儀では儒教的な伝統儀式が規制され、悲しみの表現にもしれなりに気を遣わなければならないなか、指導者に限っては古来の葬礼様式に沿った、激しい泣き方がよしとされていた。これは明らかな矛盾である。しかし、体制強化のために儒教敵要素が利用されている例は他によくある。90年代以降、指導者の「忠臣」「孝子」になれ、というスローガンがよく唱えられるようになったが、この忠や孝は紛れもない儒教的観念である。社会主義思想の影響力が世界的に衰退し、もはや北朝鮮でも国民を結集させるに十分な理念となりえなくなったなか、それを補うものとして持ち出されたと考えるべきだろう。

北朝鮮の人たちにとっては、領導者が実際どこで生まれようが、彼が北朝鮮の最高権力者であり、その人が治めるこの地で生きていくしかないことには変わりはない。この国で暮らす以上北朝鮮という国やその指導者がまっとうであるほうがいいし、国際的にも権威があったほうがいいのだ。日本に二度と帰れず、ここで子どもたちを育てていくしかないと覚悟を決めていた私たちにも、心情的には共通するものがあった。つまり、現実のあらを見つければ見つけるほど、生きていくのがつらくなるだけだったのだ。