二つの足場

娘が通う小学校にいく。自分が小学生だったころは授業参観と言ったが、今は「学校開放」と称し、学校の中ならどこをうろついても良いという建前になっている。

教室の中に貼り出している作文は、ひと月ほど前に行われた運動会が共通のテーマになっており、何人かの作品がほぼ同じ内容だったのにちょっと驚いた。それは、

・五十メートル走をはしった。
・結果は三位(あるいは四位五位)だった。自分はがっかりした。
・しかし家族(父母や祖父母)は一生懸命がんばったと褒めてくれた。
・自分はとてもうれしかった。

はからずも起承転結の見事な構成になっていたのもさることながら、ここには社会からの定量的評価(数値的評価・相対評価)と、家族からの定性的評価(印象評価・絶対評価)の違いがはっきりと表れているところが面白いと思った。

以前、さる女性大臣が「二位じゃダメなんですか?」といって集中砲火を浴びたが、あの発言が稚拙だったゆえんは、この定量評価と定性評価をはき違えたところにある。

つまり、コンピュータの国家間の開発競争では一位になることに二位以下とは隔絶したアドバンテージがあるの知ってか知らずか、この女性大臣はいわば「何も一位にならなくても、がんばったんだからいいじゃないですか」みたいな眠たいおしゃべりをしてしまった故に、責められたのである。

逆に徒競走において、自分の子供が三位以下になったとき、「ばかやろう、なにやってんだ。来年はぜったいに一位になれ」とどやしつけた親がいたとしたら、今度はこっちが阿呆である。家族である以上、その結果より態度を見て子供を評価するのが至当だからだ。

この違いは、一人の人間が、社会において他との比較のもとに評価される相対的存在としての顔と、家族内における唯一無二のかけがえのない絶対的存在としての顔の、二つの顔を持っているところから生まれる。

おそらく人間は、どんな時でも無条件に受け入れてくれる寛容な場所(家族)を確保してこそ、冷厳な相対主義の場所(社会)に飛び込んでいけるのだ。社会的存在たる人間は、そのどちらの足場にも平等に目方をかけて立たなくてはならないのだろう。