永遠の機心

 よく「人間だから間違いを犯すのは仕方がない」という言い方をするが、では「人間以外の決して間違いを犯さない存在」とはいったい何か。それはおそらく、近代までは「神」であり、そして現代においては「機械」である。「機械のように正確だ」という類の修辞が、その共通意識を如実にあらわしている。

ようするに、機械は現代人にとってはかつての神に酷似した存在であり、ほとんど「信仰」の対象になっている。大量の計算は紙の上で筆算したり算盤の玉をはじくより、表計算ソフトに頼った方が速くて正確だし、車での遠出は自分で地図と首っ引きになるよりカーナビの言うとおりにした方が楽ちんで間違いがない。

宗教の教団の多くは、無理筋の信心を信者に強要するが、機械に対する信仰にはそれなりの合理的な理由がある。「信者」は増えるべくして増えている。

だが、こういう「信仰生活」を続けているうちに、それが依存へと亢進して、人間はとうとうそれ無しでは物質生活も精神生活も営めないようになった。そして、野放図に機械に依存し続けているうちに、機械はときに人間を裏切りだし、情け容赦のないしっぺ返しをするようになった。

今、われわれは、機械の気まぐれや反抗に苦しめられることが常態になっている。会社や自宅のPCが不調になれば慌てふためき、金融機関のネットワークがシステムダウンすれば社会中が途方に暮れる。いつ終息するとも知れない原発事故の後遺症など、その最たるものだろう。

そして、あらゆるシーンで演じられるようになった機械の不如意は、それを使う人間の精神を不安定にするようなった。依存する対象がうまく甘えさせてくれないとき、対峙する人間の精神は平衡を失い、病む。これはかつてのベストセラー「甘えの構造」が巨細にわたり分析している真実だ。

「甘えの構造」では、依存する(甘える)対象に、日本社会における会社や家族や友人関係を想定していたが、この対象は、そのまま「機械」にも敷衍できる。この「機械に依存する心」のことを、荘子は「機心」と呼んで警戒した。
http://junshinji.jp/mt/archives/2007/10/post_1.html

荘子がやり玉にあげた「機械」は粗末な古代の水くみ器であったらしいが、そんな牧歌的なカラクリの中にでも、人間の精神を蝕む毒性を含有していることを見抜くのが、賢人の賢人たるゆえんだ。

そして、「機心」のもつ毒を見抜けなかった多勢に無勢の凡人たちは、その利便性と合理性ゆえに「機械」をますます開発し発達させ、どんどん依存度を高めていった。この先、どこまで機械は人間の依存心を道連れにしながら発達するのかわからないが、病気にならない人間がいないように、トラブルを起こさない機械があり得ない以上、人間の心は、永遠にその不如意にいいように小突きまわされ続ける運命にあることだけは確かだ。

わたくしごとになるが、「休日や祝日に二十分間だけ」という条件で、小学校一年生の娘に自宅のパソコンを自由に触らせている。いまのところ有害サイトにアクセスするような欲求も知恵もないが、ポータルサイトのトップページから子供向けゲームのバナーを見つけ、そこから芋づる式に、次から次へと無料ゲームをして楽しんでいる。

彼女はときどき、画面の指示が理解できなかったり、うまく操作ができなくなると癇癪をおこす。マウスを机にたたきつけて泣き叫び、涙をぼろぼろこぼしながら自分に助けを求める。「パソコンがうまく動かないのって、大嫌い!」と、この理不尽をなんとかしてくれと訴える。娘は六歳にして、大げさに言えば、現代のすべての文明社会に生きる人間の避けられない運命と対峙しているわけだが、

いずれたっぷりと味わう苦痛なのだから早くから慣れておくべきか、まだ抗体がないうちからその苦痛を味わうのは有害だと避けるべきか、答えはまだ自分の中では出ていない。「答えが出ない」と親がもたもたしているうちに、子どもは、どんどん機械の操作に習熟していく。