実体験と想像力

 「人間の命の尊さ」に気づくきっかけは、親や先生から教えられたり、宗教の教義から諭されたり、ひとさまざまであろう。

 自分の場合、それがちゃんと腹にこたえるように理解できたのは、自分の子供が生まれ、その成長するさまを身近で観察する機会を得てからようやくだった。

それまでは愚かにも、人間の命の尊さは御説ごもっともな御題目としては呑み込んではいても、それを胸中で溶解させ身体に吸収させてはいなかった。自分の場合、そこまで我が身に切実にならなくてはほんとうのことがわからなかった。我ながら、なんと貧弱な想像力であろうと、忸怩たる思いがする。

痛風の痛みは痛風になった人にしかわからない、銃弾が飛び交う中を突撃する恐怖はそれを体験したひとにしかわからない、それも一理ある。しかし、そんな卑近な論理を振り回し、あらゆる経験を内側に封じ込め、他者からの同情を拒んだり、他者への理解を諦めても、何も豊かなものは残らない。

自分で体験しなくては人として持つべき真理は何一つ手に入らないほど、人間与えられた想像力は矮小なものではないはずだ。たとえ自分では体験しなくても、それを体験している他者を観察し、もし自分で体験したときにどういうふうに感じるか、それを思い描く想像力は、きっと、ふつう考えられている以上に大切な能力なのだ。

自分が体験したことしか描写ができず、叙述もできないのならば、その人は「語り部」にとどまる。実体験と想像力の両翼があってこそ、ひとは真実の沃野を鳥瞰する浮力を得る。

個人的な体験は、想像力によって普遍性に昇華させてこそ、他者と共有しうる価値を帯びる。そして、その産物を受けとって、自らの体内に溶かしこんで心の滋養にするには、受け手側もまた想像力の助けを得なければならないだろう。つまり、真理や真実のやりとりにおいて想像力を駆使する義務は、発信側と受信側ともにあるのだといえると思う。