読書

 歳をとる利点の一つに、かつて鑑賞したおもしろい作品を、まるで初めてみるような新鮮さで再鑑賞できる、ということがある。ただ、これは情報への感受性と記憶の保存力(この二つは本質的には同じだが)の衰退が大いに関係しているのだから、手放しで喜ぶことでもないのだけれど。

そういえば、自分は今まで何冊本を読んだのか知らないが、そのほとんどの内容を思い出せない。だからといって、読むのが無駄だったのかといえば、どうやらそうでもないらしい。

読書は食事に似ている。今まで何万食を食べたのか知らないが、そのことごとくのメニューを忘れている。だからといって、食べるのが無駄だったのかといえば、そんなことはない。それらは無意識のうちに体内にとりこまれ、滋養や活力や筋骨の組成に役立てられた。

読書にも似たような作用がある。日常生活における、自分のひとつひとつの行動や判断に、かつて読んだ書物の内容がどのように作用しているか、想像を絶するものがある。いつでも都合よく表層意識に呼び出せて、解答用紙に再現できるテキストだけが、読書から得られる糧ではない。

何よりも、読書をしている時間そのものが、かけがえのない人生の持ち時間の費やし方の中で、もっとも豊かなものの一つである。読書はけっして何かの手段ではなく、それ自体が目的たりうる。少なくとも、自分にとってはそうだ。これは、食事をすることが、養分の吸収である以前に、それ自体が深い愉しみであることと同じである。