風立ちぬ

この作品の中に「飛行機は戦争の道具でも商売の手立てでもなく美しい夢だ」みたいなセリフがあったが、もし零戦に美しさがあるとすれば、それは「戦争の道具」という機能性と切り離せないものだったのではないだろうか。 

国立博物館の「和様の書」展を見、本阿弥光悦の美しい書の前を立ち去りがたかった。彼の本職は刀剣鑑定師だった。もし彼に「刀は戦いの道具でも、取引する商品でもなく、美しい芸術作品ですよね」といったら、どう答えただろうか。「いや、殺し合いの道具ですよ」と平然と答えるような気がする。

刀剣鑑定師とは何を鑑定する存在なのだろうか。刀剣である以上は、実戦の場で、「斬れる」か、「刺さる」か、「(刃こぼれしない、曲がらない)強靭さがある」かに尽き、彼らの仕事はその機能性の高低を計量するのが第一義であったのだろう。そして、もし刀剣に美しさがあるとすれば、その機能性が出そろった結果として自ずから醸し出されるものであって、初めからそれ自体を志向するものではないと思われる。

おそらく本阿弥光悦は、美術作品を鑑定するときでも、「この作品は『斬れる』か」を基準としていたのではないか。つまり、どんなに見かけは小ぎれいにまとめていても、実戦の場で斬れ味を発揮できない作品は、歯牙にもかけなかったのではなかろうか。

現代風では「エッジがきいた」とでも言おうか。これは切り口の鋭さや、切り込みの深さを評した言葉だと思うが、簡単に言えばその有無が、「斬れる」作品かそうでないかを分けているのだろう。

「美しさ」自体を目的にした脆弱さ、「風立ちぬ」を見て不遜にもそんな言葉が頭に浮かんだ。この映画が決定的に釣り落としているのは、機能性の担保だと思うが、見る人によっては「機能性が損なわれているからこそ、真の美しさが立ち上がるのだ」というかもしれない。