いちご白書をもう一度

学生運動というのは、結局のところ巨大な文化祭のようなものだった。はじめは踊る阿呆と、傍観する阿呆にわかれていたが、同じ阿呆だったら踊らなければ損だったから、脳みその賢愚を問わず、学生(多くは男子学生だが)はこぞってこの祭りに参加した。

親から学費をだしてもらっているはんちくな身分の若者たちが、デモ隊を組んだり、ゲバ棒を振り回したり、機動隊に石ころを投げつけたり、バリケードの陰で抱き合っているうちに、いつか社会がひっくり返ることを妄想していた。

現代の視座からすればお笑い草としか言いようがないが、その当時の社会の空気を知る人が語るのを聞くと、本当に明日にでも革命が起こるかのような機運は、当時確かにあったのだという。

当時の若者たちを、大人たちはどうみていたのか。「調子に乗ってんじゃねえ!お前ら全員退学だ」と大ナタを振るえば、たしかに彼ら学生たちはたちまち意気消沈したかもしれない。しかし、社会が大混乱に陥る可能性の方が、はるかに大きかっただろう。

なにせ「団塊の世代」の人口は、範囲の指定によってはゆうに一千万人を超え、この巨大な人口が学生の身分を剥奪され、いっせいに寄る辺がなくなったとき現出するであろう社会的混乱の恐ろしさは、復員してきた兵隊ヤクザの狼藉どころの騒ぎではなかったはずだ。

だから、当時の大人たちは、ぜいぜいホースの水で頭を撫でてやるぐらいの懐柔策で、これに対処する以外、方途がなかったのだ。

この大人たちの「大人の対応」に甘えてか、はたまた、その弱みをしたたかにも見抜いていたか、学生たちの増上慢はとどまるところを知らなかったが、それが一線を越えてしまったのが、リンチ殺人まで引き起こした連合赤軍浅間山荘事件(1972年2月19日〜28日)だった。

ここにいたって、とうとう大人たちは、オイタが過ぎた幼児の尻をひっぱたくことに乗り出すのだが、それよりも先に、運動のなれの果てを連合赤軍に見た当の学生たちが、自主的に、というよりまるで憑き物が落ちたように、「学生運動祭」の後片付けにいそしむようになった。

浅間山荘事件の後はまさに「祭の後」だ。ただ、まだ祭の余韻は濃厚に残っており、髪をのばしたり無精ひげを生やしたりする反抗的風俗は、一定の支持を得ていた。しかし、その反抗性は、それまでのような「反権力」というよりも、「反社会」の色を帯びたものになった。

つまり、それまでの世のため人のための社会改革よりも、自己保身や快楽追求や危機回避といった「実存」を優先するようなものに、いつしか変質していた。その当時の世相を如実に写した作品が、井上陽水の「傘がない」(1972年5月)である。

テレビでは 我が国の将来の問題を 
誰かが深刻な顔をしてしゃべってる
だけど問題は今日の雨 傘がない

つめたい雨が 僕の目の中に降る
君のこと以外は見えなくなる
それはいいことだろう?

社会がどうなろうとしらない、自分が大切なのは、雨に濡れたくないという希望と、君に逢いたいという欲望だけだ、それのどこがわるいんだい・・社会をひっくり返すことばかりを叫んでいた若者が、変われば変わるものだが、もしかすると、社会運動の渦中で、その実存の萌芽はすでにあったのかもしれない。若者の、いや人間のエゴイズムこそが「普遍的」なものなのだから。


「いちご白書をもう一度」は、1975年リリースの曲で、すでに学生運動は半ば過去のものとなっていたころだ。この歌をつくった松任谷由実は55年生まれ。ひと世代上の団塊の世代を、悠々と俯瞰しながら相対化できる位置に立ちながら、この曲をスケッチした。

自分が団塊の世代だったら「学生運動も知らないくせにいい気になってわかったようなこと書くな。そもそも髪を切るのは就職が決まってからじゃなくて、就職活動を始める前だろうが」と腹を立てるところだが、当の団塊おじさんはどう思っているのだろうか。一度きいてみたい気がする。

バンバンは歌が下手くそ。松任谷由実もいまいちということで、なぜか河村隆一で。