学校公開

 自分が小学生だったときは「授業参観」と称し、自分の子供がいる学級の、それも1時間分の授業しか見られなかったと思うが、現在は午前中いっぱい、父兄はもとより地域住民にも学校を開放し、1年生から6年生まで、どのクラスのどの授業をどれだけ見てもよい形式になっているらしい。

2校時目が終わると、15分休みになり、生徒はいっせいに校庭に飛出し、蜂のように暴れまわる。サッカーをしたり、野球をしたり、のぼり棒をよじ登ったり、ブランコに乗ったり、追いかけっこをしたり、することは様々だが、すさまじい勢いで遊んでいることは共通だ。

一般に、子供時代は大人時代より時間の流れが遅いと言われるが、ここまで高い集中力で濃密に味わい尽くす時間が、大人たちがつり革につかまりながら薄ぼんやりと過ごす時間と同じ長さであるわけがないと思う。

何年何日何時間何分という定量化された時間の方がおそらく文明の衣装をまとった幻想の産物で、時間というものはその味わいかたによって伸び縮みするのだと考えた方が、きっと合理的なのだ。

授業中の教室にたちこめている空気は、自分が小学生だったころとちっとも変っていない。いつも先生と友達だけがいる空間に、家に帰らなければ会うことができないはずの親がいる違和感とうれしさに、ひとりひとりの子供の心がわきたっているさまがよくわかる。というより、自分が子供の立場だったときの心境が、はっきりと蘇るのだ。

子育てをすることは、親が子供時代を再び味わうことでもあるのだろう。この懐旧の念はとても甘美なものであり、その恩恵の豊かさは、子供が親から得る恵みと遜色がないか、ひょっとするとそれ以上のものがあると言っていいのかもしれない。