ロビンソン

 この歌のタイトルの「ロビンソン」が何を意味するのか、いまがにわからない。自分にとって「ロビンソン」といえば、「人間風車」の異名をとったプロレスラーのビル・ロビンソンだが、まさかそこにちなんでいるわけでもあるまい。(しかし、草野正宗は同世代なので、ひょっとすると、という気がしないでもない。)

 まあ、そんなことはどうでもいいが、自分がスピッツというバンドの存在を知ったのは、この曲が大ヒットしてからである。今思い返しても、自分にとって、この曲は衝撃的だった。こんなに深く胸に食い込んでくる曲を聴いたのは、覚えているかぎりでは始めてだったように思う。

 この曲について、自分の友人が「この歌を聞いていると自分の高校時代を思い出す」といったことがある。この歌の歌詞は暗喩に満ちており(もっともスピッツの曲はみなそうだが)、具体的に高校時代を描写したような箇所はどこにもない。しかし、この友人の感想には深い妥当性がある。

 世の中には同じ人間は二人といず、一つの出来事は二度と繰り返すことはない。ようするに現実世界というものは、具体的な事象と個別的な体験で完結しているのだが、詩人はその具体性・個別性をそのまま飲み下し、吐き出すに飽き足らず、ひねりを加えて普遍性に昇華させて作品に仕立て上げるのを旨とする人間たちなのである。

 その結果、「この詩はいったい何が言いたいのだろう」という不可解な焦燥を鑑賞者に与えるのであるが、この不可解さにこそ、詩の持つ根源的な底力が備わっているのだし、そもそも、わざわざひねりを加えて抽象性に昇華させている詩を、ひねりを戻して具体性に還元させたところで、豊かに得るものなどなにもない。

 おそらく、スピッツ草野正宗)が詩のモチーフにしている具体的な事象もあるのだろうが、詩とは、受け取ったひとがめいめいに、高校時代を思い出したり、中学時代を懐かしんだり、手前勝手な、個人的な、閉鎖された解釈を堪能すればそれでいいのである。

 それこそが作者が望んでいる鑑賞態度なのであり、その意味で「この歌を聞いていると高校時代を思い出す」という友人の言葉はまったく正当な吐露として、自分の中に強く印象づけられたのである。