十七歳の地図

プロゴルファーの石川遼が登場したとき、天賦の才能とルックスの奇跡的な両立ぶりと、仕事に取り組む姿勢のひたむきさに「まるで尾崎豊のようだ」と思った。

同じように若くして同世代から抜きんでて才能を輝かせた二人だが、尾崎が破滅し、遼くんが破滅しそうにないのは、やはりロック歌手とプロゴルファという仕事の違いに理由がある。精神の未熟さを熱源にした尾崎と、精神の未熟さを克服できなければ飯の食いっぱぐれになる遼くんとでは、先行きの破滅危険度がおのずから違ってくるのだ。

尾崎の死因は現在でも謎に包まれているが、どんな理由にせよ、彼自身が予期し、ひょっとすると心の中で望んでいた破滅だったような気がする。もし、尾崎の死因が自殺ではなく、巷間噂されているような暴行による殺人だったとしても、それは彼が、自らをそういう状況に追い込んで行った、言葉を換えれば、自ら暴行されるように仕向けていった結果という意味において、自殺にきわめて近似した性質のものだったような気がする。
 
「こういう生き方には先が無いじゃないか。」

自分は、ほぼ同世代の尾崎の活躍を横目で見ながら、いつもそう感じていた。だから自分は、当時尾崎豊が大嫌いだった。自分がいかに尾崎豊が嫌いかということを、ノートブックに何ページも熱に浮かされたように書いた記憶もある。

盗んだバイクで走りだしたって、いつかタンクのガソリンはなくなる、そうしたらどうするのか、バイクを放置して歩いて帰るのか、そのまま家出するのか、家出したらその晩はどこに泊まるんだ、一晩ぐらいは野宿できるだろうが、二晩目はどうするのか・・・

今にして思えばまるでイチャモンそのものだが、尾崎の歌を耳にすれば耳にするほど、そして歌詞の内容を考えれば考えるほど、こいつの言うことをまともに聞いてはいけない、まともに聞くとろくなことにならない、という感を強くしていった。

だから、自分は、生前のリアルタイムの尾崎豊とはほぼ交渉がなかった。自分がかれの歌の良さを知り、かれの歌が好きになったのは実は三十を過ぎてからなのである。

それは、尾崎が表現する青春の懊悩の吐露や情念の破裂から遠く離れ、もはやそれらが他人事のように乾いた対象になったから、やっとまともに向き合うことができるようになったに過ぎないのだろう。自分はあいかわらず、当時の若者たちを熱狂させた尾崎豊のほんとうは、おそらく何一つ理解していないままである。

この1984年新宿ルイードでのライブ映像は、何度繰り返し見たかしれない。その中でも最も好きだったのがこの「十七歳の地図」を、喉を痛めつけるように絶唱する彼の姿である。高校を中退した直後だった尾崎豊は、凄味を感じるほど若く、美しく、力強かった。自分はそれに強く魅了されたのである。