酒井順子

酒井順子の著作は、途中で読むのをやめたものを含めれば十数冊は読んでいると思うし、繰り返し読んだものも多い。存命の現代作家で、これほど自分が読み込んでいる書き手はいない。

この人の書くものには、洞察の深さと、論旨の明確さと、ユーモアがある。ひとまず三つ並べてみたが、じつはこれらは同根から発するものだ。

問題の核心を深い洞察力で抉り出し、論旨明確な文章に整えると、それはしばしばユーモアを帯びた姿を見せるものである。

人間には「核心を突かれると笑う」という奇妙な性質がある。酒井順子のユーモアは、「言っていることが核心をついている」ところから発しており、内容よりも語り口に頼っている世のユーモアを売りにした他の文筆家と、その点で一線を画しているように思う。

ここまで褒めると、自分がこの作家が大好きなようだが、どちらかというと嫌いなのである。嫌いといっても、たとえば生理的に受けつけなかったり、内容がくだらないから嫌いというわけではなく、クサヤや納豆のことを「臭い」と感じながらも食べずにいられなかったりするのにちょっと似ている、かなり屈折した「嫌い」なのだ。

酒井順子は自分と同世代ということもあって、生きてきた時代背景や社会感覚がほぼ共通していて、言う事、説く事、ことごとく納得を通しこして身につまされることばかりで、読んでいて苦しくなったり、腹が立ったりもする。だから「嫌い」なのだが。

これは、街中で自分と同じ服装をしている人と出くわしたときこみ上げる嫌悪感にも似ている。一種の同類嫌悪、自己嫌悪の反射としての嫌悪、ガマガエルがかく油汗のような嫌悪でもある。(こんな手前勝手な嫌悪感をぶつけられても先様も迷惑だと思うが、これほどまでに身を入れて読んでいるということで容赦してもらいたいと思う。)

この人の書くテーマは「結婚をとりまく女の人生」でほぼ首尾一貫している。そんなテーマに、なぜ男性である自分がほとんど嫌悪感に酷似した共感性を抱くかというと、前述したようにこの人の時代感覚や社会感覚がわかりすぎるほどわかるということと、加えて、文章感覚が女性よりも男性的であること(きわめて粗雑な分類ではあるが)に理由があるのではないかと思う。

これは、彼女が現在オヤジ系週刊誌で長期連載をしている事実からも証明されているように思う。この人のものの書きようは、女性よりも実は男性の方に親和性があるのではないだろうか。

では自分が仮定している「男性的な文章感覚」とは何かというと、良い意味では論旨明快に思考素材や思考過程や結論だけをぶつけるジャーナリスティックな潔さであり、悪い意味では文学的風韻やムーディな味わいに欠けるというところだが、

雰囲気に流されて甘く書き飛ばしたようなところが、文章のどこにも見当たらないところは大いなる美点だと思うし、ひょっとすると著者が未婚でいるのもそういった隙のなさが災いしているのかもしれない、というのは大きなお世話ではある。

もっともこれは、「結婚する気は大いにある」というこの人の言葉にウソは無いと仮定しての話ではあるが。