にもかかわらず、笑う

 アルフォンス・デーケンという、長く日本の大学で「死生学」という学問を教えてきた神学者がいる。この人によると、ドイツではユーモアとは「どんな困難な状況にもかかわらず笑う」ことをいうらしい。

困難な状況とは、自分の外的な環境だったり、内的な心境だったりするわけだが、とにかくユーモアには、苦境に翻弄されない理性的な抵抗という概念があるらしい。

そういえば、例えば「ダイ・ハード」のようなハリウッド系の娯楽アクション映画などで、主人公が絶体絶命のシーンでしばしば笑えない冗談を言うが、ユーモアというものは、本来、ああいったシーンで発するものを指すらしい。

日本社会の場合、深刻な危機に直面したとき発せられた冗談を受け入れる文化的風土は残念ながら無い。

笑いの発露を公的に許された空間、たとえば忘年会などでは裸踊りでもなんでもするが、たとえば、会社の経営危機をなんとかしようとするために招集された取締役会で、みなが青筋立てて議論している最中にへたな冗談など言おうものなら、どうなるだろう。

しかし、多くの場合、事態が深刻になればなるほど、緊迫度が高まれば高まるほど議論は硬直し脳みそは金縛りにあい、なんの解決の知恵は浮かばないという悪循環に陥るのが普通である。つまり「貧すれば鈍す」というわけだが、

そういったときに一言の「ユーモア」による場の空気の換気は、硬直した議論では出るはずもない斬新な角度からの解決案を生むきっかけになる(こともある)。西洋人がユーモアを好むのは、その面での効用を良く知っているからかもしれない。

しかし、日本人はその効用を知ってか知らずか、「場違い」なジョークは、「空気が読めない」と排斥されるならまだしも、以後の社会生活において致命的なダメージともなりかねない。

なお、この場合の「ユーモア」の内容は、必ずしもレベルの高い、センスのよいものものである必要は無い。聞くに堪えないオヤジギャグでもかまわない。とにかく「緊迫した状況【にもかかわらず】冗談を言う」という行為自体が重要なのだ。

「日本人はユーモアやウイットを理解しない」という欧米かぶれの俗論に与する気はないが、ユーモアやウィット(ギャグや冗談)の上述の視点での効用を理解している人は少ないし、また理解していても受け入れられる風土がないことから、実践する人は少ない。

かくして日本人において「笑い」は、それを受け入れてもらえる場(宴会や、気の置けない集まりや、寄席や演芸場や、軟派なテレビ番組)や、公的な場においてもっとも位が高い人だけに発言が許されるものになり、多くの場合は同調圧力によって封じこめられるものになる。

これは良いことなのだろうか、悪いことなのだろうか。自分はこれは悪いことだと思う。ユーモアには、ただ笑って楽しむだけの作用以上の、困難な状況に風穴をあける強靭な突破力があり、日本人はその力を有効に活用できていないように感じるからである。