センター入試

数日前、センター入試の問題が新聞に載っていた。われわれの時代は、現国の問題文に小林秀雄の文章が頻出しており、自分はそれをきっかけにして(つまり受験対策として)彼の文章を読むようになった。

でも、この人の文章は晦渋で、思わせぶりな表現だらけで、何十回読んでも何が言いたいのかよくわからない文章も多く、国語の問題文にはふさわしくないものだったのではないかと、今では思っている。

・・以上が結論なのだが、もう少しくだを巻く。

自分と小林秀雄(の文章)とのほんとうの交流は、受験という余計な介在が無くなった大学時代からやっと始まり、以後、約三十年近くの付き合いになるが、もっとも影響を受けたのは、書いてある内容ではなく表現、もう少し具体的に言うと文章感覚やトーン、さらに俗な言葉を遣えば節回しだった。

自分は文章を書いているときに、身に沁みついている小林秀雄のメロディに作詞をつけているような気分になることがある。これがいいことなのか、悪いことなのかは知らないが、そういう時は書くのが楽なことは確かだ。

それはさておき、センター入試の話に戻ると、今年の現国の問題文は、小林秀雄の「鍔」という文章だった。自分はこの文章を読んだことが無く、活字が小さくて読む気にもならなかったのでどんな中身かはしらないが、受験生たちはさぞや面喰ったことだろう。

彼のような文章は、現在の著述家(作家、随筆家、評論家、各種ライターなど)のテキストではまずお目にかかることはない。なぜかというと、現代人の文章感覚は、内容の論旨明快を好み、晦渋な表現を嫌うからだ。

「文章とは内容を盛る器にすぎない。だから解りやすければ解りやすいほどいい」

みながこの価値観を共有している。そして今、著述家たちはわかりやすさを競うようになり、その結果、だれもが同じようなトーンの文章を書くようになった。

これはきっといいことなのだ。内容がわかりにくいより、わかりやすいほうがいいに決まっている。一般論でいっても、見せかけより中身で勝負するほうが、正当である。

しかし、小林秀雄という人は、内容の明晰よりも、器そのものの美しさを追求した著述家である。かれにとっては「わかりやすさ」は二の次の価値にすぎなかった。

これは小説家や評論家というより、詩人の行き方である。小林秀雄は、言わば評論を詩でつづった人だ。そして、詩の分析的解釈ほど愚劣なものは無い。

詩は、現実にひねりを加えて造形するのを旨とするが、ひねりのあるその姿をありのままに味わうことが最上の受容態度であり、ひねりを直して納得した気分になるのは、意味のないことだ。

 再び結論をいうと、現代文のテストは、論旨明快な文章の論理的理解力を測定する客観調査であるべきで、問題文として小林秀雄の文章はそれにそぐわなない。

小林秀雄の文章を入学試験の問題文に選んだ、三十年前と今の人たちには、そのことがよくわかっていなかったのではないだろうか。

もしかすると、自分が受験生だったときに小林秀雄の文章に苦しめられた経験を持つ人が、三十年後に出題者に立場になって、後輩たちを同じ目に遭わせようと画策したのかもしれない・・なんて、悪い冗談だな。