変容の歴史と、受容の伝統

「農耕牧畜社会」では、生態系の頂上に人間がいるからさらにその上の存在を規定する一神教的なマインドが生まれたが、「狩猟採集社会」では、人間より能力や生存力の高い動物や植物が沢山とり巻いているせいで多神教的なマインドが醸成されたという中井久夫の説はたぶん正しい。

日本人は一般的に多神教の宗教観を持っているといわれるが、これは狩猟採集社会だった先住民の「縄文人」以来の伝習なのだろう。日本の先住民を放逐した農耕の民である弥生人(ヤマト国家 )は天照大御神天皇家の始祖)を奉ずる一神教なのも、中井説を裏付けるものだ。

司馬遼太郎は、一神教は砂漠の宗教、多神教は緑土の宗教という風に地形や風土的にその成立の原初を説明していたが(それも決して誤りではないが)、農耕牧畜民なのか、狩猟採集民なのかに理由を求めた方が、一歩進んだ解釈ができるように思う。

農耕牧畜をするには、土地を切り開き、動物や植物を、人間の都合のよいよう調教し作りかえて「支配する」意志が必要になるが、狩猟採集をするには、眼前にあるがままの自然と共存し、その恵みに「感謝する」モラルが必要になる。

日本の国土は「瑞穂の国」というわりには稲作に適した土地柄とは言えない。稲の生育に必要な雨季も乾期もないから、わざと田んぼを水びだしにしたり、水を抜いて乾かしたりしなければならないし、平野が少ないから、山を切り開きさらに水を水平に張るために棚田を作らなくてはならない。

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日本の棚田

今では東北地方が日本の「米どころ」になっているが、そもそも寒冷で山が多い東北地方が、温暖なモンスーン地帯で生まれた稲の栽培に適しているわけがない。ここに至るまでには先人の、血のにじむような開墾と品種改良の努力の蓄積があった。つまり日本の稲作は、無理に無理を重ねて、 今に至ったのである。

日本の稲と田んぼは弥生人から綿々と自然への挑戦を続けてきた結果得られた尊い物質的果実である。そしてあるがままの自然への感謝の念は、縄文人から綿々と引き継いでいる精神的遺産である。日本人は、先祖が続けてきたこの自然への「変容」と「受容」の取り組みを、継続しなければならないのだろう。

梅原猛は、握りずしを、「狩猟採集の象徴である魚と、農耕牧畜の象徴であるコメを合体させた、日本人を象徴する食べ物」と評している。日本が真に守り抜く歴史と伝統は、まさにこの食べ物が教えてくれていると言えるだろう。

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言葉の異郷

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 小林秀雄の著作を読み返していると金言が至るところに見つかって、しみじみと面白い。特に、若さゆえの力みがとれて、かといって老境の晦渋さにも入っていない、四五十代の頃のものが、論理に張りがあり、展開に美しさがあり、表現に詩的風韻があって、良いように思う。

もし現代に小林秀雄のような個性が蘇り、小林秀雄のような口ぶりで執筆や言語活動をしても、いっこうにウケないに違いない。なぜなら、「意味がわからない」から。こういうテキストを受け入れ、その価値を認めた時代の、日本の文明度の高さは、今とは比べ物にならない。

小林秀雄の作品に向かって、なぜもっと分かりやすくかけないのか、と言うことは、詩人に向かってなぜもっと言いたいことを直接書かないのか、というに等しい愚である。一般に、文章というものはある概念があって、それを言葉で写しとると思われているが、これはかなり低級な言葉の使用方法である。

先にある考えがあって、それを表現するにはこの言葉がよいか、いや、あの言葉がよいかと吟味検討するのもひとつ行き方ではあるし、自分もたいがいはその段でいくが、詩人の場合、考えと言葉(内容と表現)は同時にぞろっと出てくる。この二つは、背中とお腹、肉体と精神のように分岐不能なものだ。

政治的主張や、ビジネスの現場で、意味が通らないわかりにくい言葉を使うのは論外だが、言葉にはもう数ランク上の、高度な遣い方をぶつけあう別次元の世界があり、その言葉の異郷で君臨していたのが、小林秀雄(の言葉)である。

小林秀雄の「モオツアルト」という小論は、終戦戦後の、これから日本がどうなっていくか誰も見通せなかった混乱期に書かれたものだが、これを読んだある人が「ああ、いい文章だ。こういう文章があれば日本は大丈夫だ」といった。彼の文章は、そういうふうに当時の日本人に受け入れられていたのである。

現代に、「こういう文章があれば、日本は大丈夫だ」と読み手に思わせられる書き手はいるだろうか。自分の知る限り、ただの一人もいないと思う。誰もが、「内容を伝えるためのメッセージ手段」という最小限の用途としてしか、言葉を遣えていないと思う。

大樹が滅びる時

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東証1部の衣料品大手「レナウン」(東京・江東区)は15日、民事再生手続きを開始すると発表した。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、主要取引先だった大手百貨店が休業となり、大きな打撃を受けた。負債総額は138億7900万円。帝国データバンクによると、上場企業の経営破綻は今年初めて。コロナによる経済縮小の影響が大手企業に及んだ。

 企業を一本の樹に例えれば、社員はその葉である。葉は穏やかな平時には木を成長させる養分を作り出す場所だが、一朝暴風が吹き荒れれば、風力のまともな受け手になり、枝や幹すらも折ってしまう。非常時に経営者が行う人員削減は、風の抵抗を極力減らすための「葉の伐採」になぞらえることができる。

だからといって「暴風下では葉の伐採を行うことが一様に許される」とは言えない。「風の強さ」と「葉の抵抗力」を比較考量して、葉を伐採することの可否と量を検討しなければならない。幹が折れてしまうほどの風力ならば伐採はやむを得ないし、まだ耐えきれる程度ならば安易な刈り取りは許されない。

ただ、一本の樹を襲う災禍は「風」だけではない。風は一時の吹きまわしだが、「温度」の変化に直面するとどんな大樹でも葉も枝も幹も根も死に絶えてしまう。企業が恐れるべきは一過性の「風」的なものではなく、見た目の印象は静かだじわじわと息の根を止める「温度」的なものだ。

温度の変化は、「とりあえず葉っぱを刈ってやり過ごす」という対処法が通用しない。「もう生きていられないから諦める」とか「生きていられる温度の場所に移植する」といった根本的な対策が要る。

今回のコロナ禍が、ワクチンや治療薬ができるまでの一時的な「風」なのか、人間たちが永続的に直面し続ける「温度」なのかはまだ本当には判らないが、「これは風ではなく温度である」とやや悲観的に考えていた方が、見込み違いがあってもケガが少なくてすむと思う。

安倍晋三の「我が闘争」

今政府の国民への財政出動の動きも金額もしょぼいのは、お金を渡したくないからということもあるが、平時に無駄遣いをしすぎて資源がないから、である。平時の政府の悪辣・放縦を見逃していると非常時に被害を被るのはいつも国民だ。

「非常時なんだからいくらでも札を刷ればいいじゃないか」という議論は、日銀が政府から独立している意味と、財政ファイナンスは法律で禁止されている意味を知らない、あるいは見て見ぬふりをしているところから生じるように思う。

MMTがどんな理論なのか何度説明を聞いてもよくわからないが、根本的に、日本人が国内でどんなに円を後生大事に思っていても、海外の投資家がこぞって「一万円札はただの紙切れだ」と思った瞬間にそれは本当の紙切れになる恐ろしさを度外視していることは多分間違いない。「海外の投資家」はそんなにお人好しぞろいなのだろうか。

日銀政策委員会や最高裁が安倍政権の息がかかった人間ばかりになり、さらに検察トップや警察トップも同様になりかかっている今にいたって大騒ぎしても手後れ感はいなめない。冷笑家にヤニ下がる気はないが、この辺りの抜かりのなさは、巷間揶揄されているような「無能」どころの騒ぎではない。安倍晋三は行政家としてはともかく、政局を読む、あるいは権力掌握のツボをおさえるにあたっては、きわめて「有能」であり、それだけに危険な人物なのだ。

安倍氏を動かしているのは二種類のごく私的な、内面に抱えた憎悪だと思う。一つは第一次安倍政権での「政権投げ出し」を徹底非難した国民・野党・および党内勢力への憎悪であり、二つ目は左翼への憎悪である。安倍氏の政治行動はこの憎悪を吐き出すことが「目的」であり、政策はその「手段」である。

政治権力を担保するのは数の力(支持する国会議員の数や、政権支持率)で、「アベノミクス」はそれを拡大するための有効な手段だった。第二次安倍政権発足時、企業はいわゆる「六重苦」といわれる経営環境にあえいでいて、その中で最も深刻だったのが、円高による輸出不振と高い法人税の二つだった。

法人税の減税は国会で法律を変えればできるが、円高の解消は日銀の協力が必要なので、日銀の独立性と財政規律を重んじる白川氏から両方をまるで重んじない黒田氏に首をすげ替えた。いわば、「白河の清き」から「濁りの田沼」にドジョウの棲みかを変えたのである。

白河(当時老中だった白河藩松平定信 )の清きに魚もすみかねてもとの濁りの田沼(前老中田沼意次)恋しき

今にして思えば、この白から黒への日銀トップのすげ替えが、以後頻発することになる、安倍政権が独立系組織の人事に過剰な口出しをする嚆矢(?)だった。

安倍政権の指向する金融緩和政策は、質的には円高是正とそれによる輸出およびインバウンド振興、量的には国内のデフレ解消による内需振興に効果があることを想定していた。前者は円の金利が低くなることで海外投資家が円売りになびくことによってわりと単純に達成されたが、後者は完全に失敗した。

ここは私見だが、アベノミクス量的緩和によるデフレ脱却が失敗したのは、「貨幣数量説(通貨の流通量を増やせば物価は上がる→デフレから脱却できる)」が時代遅れだったというよりも、「お金の配り方」に問題があったのではあるまいか。

つまり、市中への貨幣への供給がつねに銀行を通して行われたため、銀行は構造的にも生理的にも、信用力のある企業や個人にしかお金を供給しないから、富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなり、中間層はどちらかに分離するという、いわゆる「二極化」の後押しにしかならなかった。

銀行の貸し出し機能を介さず市中への貨幣供給をする方法としては、一時「ヘリコプターマネー(上空から札びらをバラまく )」理論が注目された。これは個人の銀行口座に国から直接お金(不労所得)を振り込む方法で、現コロナ況下で実行されている諸々の給付金に、性格やしくみが類似しているものだ。

自分はヘリコプターマネー理論に反対だった。こんな乱暴な話があるかと思ったのだが、今にして省みれば、金融緩和の恩恵が国民の隅々まで行き渡るし、貯金する余裕がない層はすぐ消費に回すだろうから、内需の喚起にもつながりやすい良いアイデアだったのだ。しかし当時は奇手にしか思えなかった。

安倍政権が「ヘリコプター」を検討したのかどうかは知らないが、日本全国津々浦々に「恩恵」を及ぼす政策を、自分の憎悪の腹いせを終局の政治目的にしている権力者が、その権力基盤を支えてくれる「お友だち」を越えて、敵味方問わず幅広く利益供与するような行動を採ることは、とうてい考えにくい。

小林秀雄は「ナチスには指導理論などない。あるのは燃え上がるような憎悪だけだ」と「我が闘争」の読後感で述べたが、安倍氏の政治行動もたいていは「憎悪」から読み解けるように思う。まさか日本の総理大臣にそんな人が着くなんて、と思う向きが多いだろうが、そのまさかが起き、続いているのである。

多摩川 

 

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結構大きな魚がいる。はっきりと魚影が見える。釣りの趣味にするのは永年のあこがれだが、なんとなく踏み出せずにいる。

夕方になると、釣り人たちがテトラポットに集まってくる。ここが釣り場になっているらしい。大人でも細心の注意を要する足場だが、そこに2・3歳ぐらいの女の子を連れ込んでいる父親がいて、かなり危なっかしい。

案の定、母親が不安そうに声をかけている。何を言っているのかは聞こえないが、おそらく止めろと言っているのだろう。自分は母親の不安に共感したが、こういう認識の齟齬が裂け目になって、夫婦の間に溝ができることもあり得るのではないか、と考える。大きなお世話だが。

共同幻想が崩れるとき

 王権VSブルジョアジーの市民革命を経たあとの第2波として、資本家VS労働者の「階級闘争」が始まるのだが、この動きが共産主義国の没落で潰えたのが、結果的に「庶民を守る」哲学がキリスト教的博愛思想以外どこにもない現代に、繋がっている。

キリスト教的博愛思想とともに、永らく社会のセーフティネットの役割を果たしていたのが共同体の存在だろう。

これは日本だけではないが、近代まで人間は大抵が村落共同体(ムラ社会)に所属していて、構成員が何らかの事情によって困窮に陥った時に、村全体で支援する仕組みがあったが、それがほぼ崩壊した現代では、個々人はバラバラで困窮に向かい合い、それを救うのは行政の役目になった。

現代では行政が機能しないと困窮から抜け出せないしくみになっている。そして今「行政が機能しない」状況になり、「庶民」が困窮している。一握りの使命感のある県や市が救済に乗り出しているが、これには限界がある。なぜなら彼らには通貨発行権はないので、いずれそのための予算が払底するからである。

その役目を担っているのは、やはり「国」しかない。今、その国が全く機能しない。これはとても恐ろしいことだ。

その国の尻を叩く言論として、「今は非常時だから、国(政府&日銀)徹底的に円を刷り配分すればいい」という考え方がある。これには一理ある。日銀が発行する円に交換する国が発行する国債は、日本の場合ほぼ全量が国内で買い入れられているのだから、「政府の債務(借金)=国民の債権(貸付)」であり、いくらこの取引を膨らませようが国民にはなんの痛痒も危険もない、という理屈だが、これは本当なのだろうか。

通貨は、「これがあればモノやサービスと交換できる」という共同幻想に支えられている。通貨が、ただの金属片や紙片あるいは電子データに多くの人の目に映ってしまった瞬間、その幻影は姿を失い、通貨はその神通力を失う。言葉を換えれば、通貨幻想はその「希少価値」によって支えられており、その流通量は経済の活発化とバランスをとりながら、慎重に決められるべきものだ。

今の日本は「中央銀行の政治からの独立」という先人の知恵を土足で踏みにじっている状況下で、その現実は相当危ういものだと言える。どんなに通貨量を増やそうが、日本円の価値に永遠に揺るぎはないと、どういう根拠でいえるのだろうか。

よしんば、日本国内において「円」への共同幻想が維持され続けたとしても、地球に溢れかえる日本円への信頼を海外が維持してくれるのかを考えると、はなはだ心もとない気がする。世界はそんなお人好ぞろいなのだろうか。円の交換価値が棄損されれば、それ以降、輸出にも輸入にも弊害が出るだろう。

今は「中央銀行の独立」という先人の知恵を土足で踏みにじって誰も顧みない状態にあるが、マネーサプライが政治判断に委ねられる奇形的状況にあっても規律は意識するべきで野放図にやっていいことではない。さもなければ、ハイパーインフレなり、預金封鎖なりで、辛酸を舐めるのは私たちだ。