「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」 鴻上尚史

 日本人とオーストラリア人との間に生まれたサラ・オレインという歌手が「わたしは半分は日本人なので、滅びの美学がわかります」と述べているのを新聞で読んだことがある。

自分は両親ともに日本人で日本以外の場所で生活をしたことがない人間だが、自分に「日本人の滅び美学」がわかっているのかというと、おそらくまるで判っていないと思うし、そもそも日本人に「滅びの美学」なんてあるのか疑わしいと思う。(「なげやりな心性」なら、あるような気もするが) 

「美学」という以上それは人間の自発的な行動原理を意味するが、死までのプロセスを美的に描いた物語である「平家物語」や「忠臣蔵」などの登場人物は、「死ぬ」こと自体を目指して行動したわけではなく、結果として訪れた死を潔く受け入れた、という話である。

つまり物語としては確かに美観を呈しているが、当事者に「滅び」に対する自発的な行動原理があったわけではない。

死を心底から恐れ、どこまでも生き延びようとするのは人間はもとより生物の本能であって、本来、そこに文化や哲学の出る幕はない。確かに他人の哀れな死にざまや痛ましい落剥は涙を誘う美しい物語だが、自分がその主人公になろうという「美学」を持つ民族など、地球上のどこにもいないだろう。
ただ、日本人には「滅びの美学」なるものがあると誤解される事象が、自分が知る限りひとつある。それが「特攻隊」である。

「特攻隊」の歴史における位置づけは、戦後に様々な変遷を経ている。まず、終戦直後から昭和三十年ぐらいまでは、「特攻隊は愚かな戦争指導の犠牲になった」「若者たちは強制されて抵抗するすべもなく泣く泣く死んでいった」という見立てが主流だった。
その後、その反動がくる。すなわち「若者は必ずしも嫌々戦争にいったわけでもなく少なからず敢闘精神があった」「特攻隊の若者は自分の運命を受け容れて、潔く死んでいった」という論が出てくる。

この論の急先鋒だったのが世界的数学者の岡潔で、彼は「特攻隊のような”悠久の大儀に帰するが如く”死んでいくことこそが日本精神である」という、「滅びの美学」に通じる解釈を示している。

小林秀雄もその立場に近い。彼は「(戦没学徒の手記である)『きけわだつみのこえ』の編集方針は戦争忌避に偏っている」とし、「敢闘精神を持って戦い散っていった若者も多い。特攻隊員もすべてが嫌々出撃していったわけではない。特攻隊になって飛び立つ若者の心境を想像してみよ。当事者の身になって物事を観ずるのが批評の極意だ」というようなことを述べた。

その後、このような特攻隊員犠牲者説と特攻隊員従容説は、もつれ合うように両立してきた。本書「不死身の特効兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」は、そういった既定の立場による観念的な主張ではなく「目的と手段」という観点から、より事実に沿った、合理的な特攻隊論を展開しているところにユニークさがある。

作者は、戦争そのものを否定しているのではない。開戦した以上国力の限りを尽くして戦うのは近代戦争のリアリズムだということを重々認識した上で、戦闘の目的が「敵に勝つ」ことより「兵隊が死ぬ」ことにゆがんでいき、そのゆがみの中であたら若い命が散っていった事実を惜しむのである。では、なぜ「勝つこと」より「死ぬ」ことが目的になったのか、作者はその理由を以下のように考える。 

「特攻が続いたのは、硬直した軍部の指導体制や過激な精神主義、無責任な軍部・政治家の存在が原因と思われますが、主要な理由の一つは、「戦争継続のため」に有効だったからだと僕は思っています。戦術としてはアメリカに対して有効ではなくなっていたても、日本国民と日本軍人に対しては有効だったから続けられたということです。」

では、なぜ戦争継続に「死ぬ」ことが有効だったのか。

「こんなに若い兵隊さんが、自ら志願して、祖国のために率先して身を捧げている。それを知れば知るほど、米英への憎しみや戦い続ける決意、窮乏に耐える決意、不屈の投資を強くしていくだろう。そのためには「戦果」よりも「死ぬこと」の方が大切だと司令官が考えて当然だと思うのです。」

作者は、軍が戦争継続のためには国民の戦意発揚が不可欠と考え、そのために「特攻」が先陣を切ることが必要とされていたのだ、と考える。この説明は確かに説得的だが、やや辻褄が合いすぎているきらいがある。そのような自己保存への「悪知恵」が働くような余裕が、当時の軍部にあったとは正直なところ余り思えない。

一部の開明派を除き、当時の日本人は、この戦争に負けることはすなわち日本民族が滅亡することだと思いこんでいた.。武器を失い、手を切断され、足をもぎ取られ、最後は噛みつくしかないという当時の戦況認識があり、そこに、最後の手段として「特攻」という考えが現れてきたのだと思う。

一般に特攻の発案者は海軍の大西瀧治郎だといわれているが、言い出しっぺが誰であったにせよ、体当たりによる自爆攻撃という策を「この期に及んではやむなし」と受け容れる心理地帯が、軍部のみならず国全体に存在した、という事実の方が重要だ。

そして、ひとたび「全軍特攻」という「無理」な指針が定まったあとは、「爆弾を落として帰還すれば何度でも敵に損害を与えられるではないか」という至極まっとうな「道理」はすべて引っ込んだのである。その「不道理」が横溢する異常な軍の空気の中で、ベテランパイロットが抱く矜持や、少年航空兵への哀れみなどの人間性に適った「感傷」は、すべて一顧だにされなくなったのである。

本書では「戦争継続のため」とは正反対の「戦争終結のため」という、特攻の目的も挙げている。 

大西は軍需省出身で、日本の戦力について誰よりも知り得る立場にいて、「もう戦争は続けるべきではない」と考えていた。大西は特攻による戦況回復の見込みは九分九厘ないと考えつつ、ヒューマニスト天皇陛下が特攻の悲惨さを認識したならば、必ず「もう戦争を止めろ」というだろうと考え、天皇自らが戦争を止めろと言えば、いかなる横暴たる陸軍や血気盛んな青年将校でも、従わざるを得まい。日本民族を救う道はこのほかにない、と。 

この考えを大西から直接聞いたのは二人の海軍将校しかおらず、その発言の真偽のほどはもう確かめようがないのだが、結果的には、昭和天皇は悲惨な沖縄線を経て、広島、長崎に原爆が投下されるまで、明確な降伏の決断ができなかった。その間、特攻隊員は続々と命を落とし続けた。特攻隊の継続は、戦争を終結に導くことはできなかった。

しかし作者はこの悲壮な死を「無駄死に」とか「犬死に」と観てはならないと主張する。 

「特攻は無駄死にだったかという問いをたてることそのものが、亡くなった人への冒涜だと思っています。死は厳粛なものであり、無駄が無駄でないかという効率性で考えるものではないと考えるからです。特攻隊の死は「犬死に」や「軍神」や「英霊」と関係のない、厳粛な死です。」 

これは少々わかりにくい言葉だが、言うなればこれは特攻隊員を災害犠牲者のように観る立場であろう。痛ましい災害の被害者を「犬死に」とか「無駄死に」とか決して呼べないように、特攻隊で散華した若者たちは、戦争という群像悲劇の中でもっとも悲痛な役割を担わされた人々なのだ、という見立てであろう。しかし、災害犠牲者と特攻隊の「犠牲者」とが決定的に違うのは、前者は自然によって予期せぬ形でもたらされる者であるのに比べ、後者は、他者(上官)の意思と強制によって行われた、というところである。(形式的には志願制の形はとっているが、実際は強制だった) 

何の罪も科もない人が、他者から逃れようもない死を強制されるケースは冤罪による死刑執行以外通常はあり得ないが、このあり得ないことが起こったケースが旧日本軍における特攻なのである。 

「本当に死を恐れない人間がいるのだろうか。特攻出撃までの日々は、苦悩そのものともう一つの戦いで、体験した者のみが識る複雑で悲痛な心境であった。私は本音を言えば死にたくなかったし、怖くなかったといえばうそになる。しかし、軍人である。命令は鉄の定めだ。悲しい運命とただ諦めるよりしかたがなかった」 

「特攻」についての自分の立場は単純で、どんな思想があろうと、どんな狙いがあろうと、どんな状況があろうと、何千人もの人間をこのような心境に追い込んだというただ一点において、「特攻」は全否定されるべきである。そして、我々日本人は、世界史上どこの国の戦争指導者も手を着けなかった決死の自爆攻撃という「戦術」を企画し実行した民族である、ということは認識しておいた方がいいと思う。

そして、民族史に断絶などあり得ない以上、立場の弱い他者を酷薄に追い込んだ戦前のメンタリティは、今も多かれ少なかれ引き継がれていると考えるのが常識であろう。