高幡不動尊 高幡城址 城について


高幡不動尊金剛寺 大日堂

薄墨の筆ペン、黒ペン、鉛筆で描いた。薄墨の筆ペンで絵を描くのは初めての試みだったが、単なる黒い墨より雰囲気が出る。いにしえの水墨画も、やや薄い墨で描いているような気がする。ただ、筆のフリーハンドだと、少しでも迷いがあると、それがもろに線に出る。ごまかしようがない。昔の人は、下描きも殆どせずに、水墨画を描いていたのだから、本当に恐れ入る。

このあと、高幡山の八十八か所巡りをする。
石造りの地蔵のような風情の弘法大師象がコース沿いに点在しており、台座に寄進者らしき名前が彫られている。「文蔵」とか「権左衛門」とか、時代を感じる名前が多い。本家の四国お遍路は「同行二人」といって、弘法大師と二人三脚で歩む、ということだが、今日の自分にも、お大師さまはついていらしたのだろうか。

高幡山には、かつて高幡城という平山城があった。

城郭というものは、人間の猜疑心と恐怖心が結晶したものだ、と思う。どんな偉容を誇る壮麗な城でも例外はない。武田信玄のように、周囲を信頼できる配下で固め、大将の軍略は冴えわたり、武力も充実、士気も旺盛となると、そもそも領内に城を築く必要がなくなる。信玄の遺したといわれる言葉に、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」というものがある。下の句はいかにも俗っぽいので後世のつけたりだろうが、上の句は実際に近いことを信玄はいったのだろう。


土塁を支える石垣は後世に組まれたもののようだが、往時をしのぶことができる。

しかし、どんな強固な城郭を築いても、ひとたび勢力が衰えれば、いずれ時間の問題でその政治軍事体制は崩壊する。なんとなれば、城の本質的な機能は、戦力の集合と出撃の拠点か、味方が参ずるまでの時間稼ぎの装置の二つ以外、実際は無いと言ってもいいだろう。

城に「難攻」はあっても「不落」はありえない。政治力と軍事力で敗れたときがすなわち城が落ちるときだ。石や土や堀の強靭さなど、なんの役にも立たない。


政治と軍事で敗れながら、城だけで持ちこたえるなどはありえない。国を保ち、発展させるにあたって重要なのは、ハコモノの堅牢さではなく、政治力・軍事力の堅実さ、つまりは「人間の力」である。そして城郭の堅牢さは軍事力を構成するほんの一要素に過ぎない。武田信玄はそのことを腹の底から知っていたのだろう。

桶狭間の戦いに臨んだ織田陣営の軍議では清州籠城の意見も出たというが、信長は一笑に付した。

味方の応援が期待できない状況での籠城は、たんなる敗北への時間稼ぎをしているにすぎないのであるから、当たり前の話だ。信長は「城」というものの本質をさすがに識っていた。実際問題、城は本質的には頼りにはならなし、言ってみれば、「頼りにしてはならない」ものだ。

では、なぜ武将は城を築くのか。話ははじめに戻るが、結局は「丸腰」の恐怖心に耐えられるほど、人の気持ちは強くないからだろう。

高さや、堀や、水や、巨石や、土塀といった具体的な建築構造物で周囲を固めなくては、不安で、不安で、どうしようもないから、古今東西、人は城を築くのである。つまりは城とは、その外貌がいかに壮麗で雄大であろうとも、猜疑心と恐怖心の結晶体であることには、変わりはない。

それにしても、人間の心の安心立命を目的とする寺院(高幡不動尊がある金剛寺)の裏手に、猜疑心と不安の結晶体である城(高幡城)がそびえている、というコントラストは象徴的である。「聖」は「俗」があってこそ成り立つように、「治」も「乱」によってしか規定されないのだろうか。