小室哲哉氏の「引退宣言」

 小室哲哉氏が記者会見の席で「才能の枯渇」といっていたそうだが、実感だろう。船村徹氏は晩年に「みだれ髪」という至宝をものしたが、それを可能にしたのは「演歌」という日本の音楽文化の「型」だったと思う。

伝統文化の担い手は年齢とともに成熟し、新興芸術の旗手は年齢とともに衰える。これは一つのセオリーであると思う。

勤め人ならいざしらず、フリーランスのアーティストにおいて「不倫」と「引退」は本来ならば繋がらないが、小室哲哉氏は、「才能の枯渇」だけでなく、私生活の混乱、不如意という理由も含めて、「引退」を常日頃から考えていて、今回の報道がその最後のトリガーになった、ということなのだろう。

そういえば、ポール・マッカートニーは、途方もない音楽的成功をしながら、いまだ円満な音楽活動を続け、世界中の人びとから歓迎されている。思うに、ポール・マッカートニーが円満な音楽活動を続けている理由は、彼自身が歌手であることが大きいのではないだろうか。

70才を過ぎた彼の歌声がどんなにしゃがれていようと、「ビートルズポール・マッカートニーが自分と同じ空間にいて、あの歌をうたっている」という事実が、それだけでも聴衆を心の底から感動させる力があり、会場で巻き上がる感動の渦が、ポール自身の音楽活動をあと押しする、強力なエネルギーになっているのである。(自身がそれに近いことを述べているのを読んだことがある)

小室哲哉氏は自分で歌を唄う気は無いのだろうか。

彼が大ヒットした数々の自曲をピアノの弾き語りで歌うようなコンサートがあれば、ファンは大挙して押し寄せるだろう。歓喜の声がコンサート・ホールに充満し、その熱がダイレクトに伝われば、彼はきっと立ち直ることができる。

小室哲哉が日本の音楽シーンに残した足跡はとてつもなく大きい。晩年は、その果実を刈り取り、十分に味わう時期になるべきで、彼にはそれを愉しむ資格がある。

「クールな楽曲」を世に出すという創造性は、確かに年齢とともに衰えるものかもしれないが、楽器の演奏や歌声は、年齢とともに、それなりの味が出てくるものだ。若い時にできたことはできなくなるが、その「できない」ということ自体にも魅力が出てくる。

多くの聴衆には、それを味わう鑑賞力がある。聴き手の聴く力を信頼しなくてはならない。信頼すれば、聴き手から大きな贈り物を受け取ることができると思う。