ヘイトスピーカーが抱える実存の切実さについて

 河合隼雄に「軽薄な意見は傾聴するに値するものが多い」という逆説的な言葉があるが、この言葉が一面真理なのは、社会的配慮や内的な事前検閲がない言葉ほどそれを吐く人の本心や本質が顕れ、場合によってはその人が属する組織や共同体の文化的本質まで顕在化することもあるからだ。

いわゆる「ヘイトスピーチ」はコンテンツ的には何の滋味もない「軽薄な意見」そのものだが、この類の発言をしたくなる人間を産み出すに至った共同体(大きく言えば日本という国そのもの)の今と過去を考察し、その本質を把握する格好の、そして貴重な素材ではあるだろう。

愛国心」というものは、本来そこに至るまでに踏むべきステップがある。まず基礎となるのは「血縁」でその象徴が家族愛や親族愛である。次にその血縁が所属している地縁への愛着であり、これは郷土愛と言い換えてもいい。テレビで甲子園大会を見るとなんとなく自分の郷里の代表校を応援してしまう心性である。

このような自分が愛着を持っている血縁や地縁を包含する大きな共同体として「国」というものが存在しそれに愛着を持つことが本来あるべき「愛国心」の姿であろう。戦前の、日本人は行政からトップダウンで押しつけられる以前に、こういったボトムアップの地に足がついた愛国心をおそらく誰もが持っていた。

これはオリンピックに出場する選手が、まずは自分のチームの一員として、次は市や県を代表する立場として、最後は国を代表する立場として競技するようになる階層構造に似ている。

更に、愛国心の延長線上には地球愛とか、人類愛といった最高次の概念がある。これは戦争抑止や地球環境保持を志向するための精神のダイナモである。

決めつけは禁物かもしれないが、現在ヘイトスピーチや嫌中・嫌韓の類にとらわれている人々とは、血縁や地縁への愛着が希薄だったり、あるいはどこかのタイミングでまったく崩壊させてしまった寄る辺の無さや、自己肯定感喪失の苦しみを、一足とびの「愛国心」で埋めようとしているように観ぜられる。

ちなみに左翼思想は、「地縁」や「血縁」や「愛国心」を全てすっ飛ばして、いきなり「地球愛」や「人類愛」に行くわけで、これはこれでとても不自然だと思うが、それはさておき、


ヘイトスピーチのコンテンツ自体には見るべきものは何もないが、それを口にしている人々が言外に訴えている実存の切実さには、現代の日本が抱えているいろいろな問題が凝縮されているような気がする。