★白川静の著作より 【抜き書き】

文字は最初に出たものほど立派なんです。歴史が常に発展向上して高められてゆくものだと考えるならば、書の歴史はまさに逆です。一つの様式が生まれたときが、最高の表現だったということなんですね。だから歴史という物をあまり狭く考えてはならないわけです。(白川静

人間の精神状態が高揚したときに、一番優れた形が出てくるわけなんですね。(白川静

歴史というものは、常に将来を見ながら過去に戻る。歴史が始まった時に神話が生まれているんです。歴史が始まったときに、我々がこれから展開しようとする歴史の根拠として、我々はいかなる伝統を持つかというので、逆に遡るのです。現在から過去に、現在から将来にというふうに動く。現在は過去と未来とにはたらく。これが歴史の本当の姿です。(白川静

中国の文学というのは、科挙の試験に及第して、官吏として出世街道を歩いて走りあがろうとした人が、なんらかのことに挫折して、市井の生活に陥った。そういうときに、社会というものはどうか、人類という物はどうか、そういう風ないろんな問題を考えて、その思索の末に作ったものです。それが漢詩であり、漢文です。

文字は人が人に意思を伝達する、あるいは感情を伝えるというような次元のものではなく、神と対話する、神に直接向かうものとして生まれた。つまり、文字は生まれたときすでに神聖文字であった。(白川静

書がもし新しい生命を得るとすれば、そこにどのような内的必然性があるかということだろうと思います。本当に強く要求するものがなければ、新しいものは出てこないのではないでしょうか。また、何か内的な必然性を持たない人が書を語ってはならないと思います
。(白川静

これはレヴィ=ストロースがどこかに記していたことですが、ある無文字社会の酋長に若干の文字の使用法を教えたところ、彼は直ちに重臣たちを集めて、もっとも厳粛な態度で、その文字を使ってみせたという経験談を記しています。

甲骨文にしても金文にしても、草書にしても、その新しい様式が出現するとともに、もっとも完成した機能を示しているようにみえるのです。こられは一見して不思議なことのようですが、しかしこれは、新しい様式を生み出そうとする力が、その出発のときに凝集されるのであって、内部の蓄積されたエネルギーが、一時に発したものとみることもできます。そしてこのとき、書はもっとも美しい姿をあらわすのです。(白川静