無礼の風圧

武士が腰に大小を差していた時代は、他人と感情的摩擦を起こすことは刃傷沙汰に直結していた。侮辱されても刀を抜けないような人間は、武士の風上にも置けなかったのである。この気風は町人、百姓におよび、その名残は戦前まで残った。

現在において、感情の齟齬は「話し合い」で沈静化を図るのが共通認識となり、旧来の暴力による決着は常識的にも法律的にも認められないようになった。しかし、感情の齟齬の結果自分の肉体が傷つけられたり殺されたりするリスクが無くなったおかげで、人々はきわめて安易にお互いを侮辱し、あざ笑い、軽視するようになり、精神は絶え間ない無礼の風圧にさらされることになった。

肉体的暴力の完全否定が、精神的暴力の消極的肯定につながり、かえって人間存在を蝕んでいる。暴力はどうしたって野蛮なもので、そのリスクが巨大ものであったからこそ、武士の時代には、他人との距離感を調整する知恵としての礼儀作法が発達したのである。

つまり、一触即発の危機感と緊張感こそが、人間を礼儀正しくさせるのであり、表現を換えれば、暴力への危機感があってこそ融和の知恵が生まれたのである。

だからといって、刃物を常時携えて、いざとなれば「そら、決闘だ!」という物騒な時代が再来すればいい、といっているわけではない。日常生活から暴力を駆逐することは人間や社会の長年の願いであり、輝かしい成果であった。しかし、何かを得ることは、何かを喪うことだという宿命的な現象が起こっているのは直視しなければならない。いうなれば、人々は、肉体的安全を得るかわりに、精神の防御壁を失ったのである。