天地の美

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富士山

 ダーウィンの進化論は模式的でわかりやすい。ゆえに世に広く喧伝されるようになったが、個人的には今西錦司の棲み分け理論の方が思考に滋味ががあり魅力的に感じる。でも、「棲み分け」は、今はあまり評判がよろしくないらしい。

科学理論でも、流行り廃りがあり、その毀誉褒貶が真実や真理に近づく道程なのか、迷妄に陥る悪路なのか、それを辿っている間は誰も知ることができない。ただ、その道の路傍が、汚濁とトラップに満ちているのか、清澄な小川や可憐な草花に溢れているのかは、知ることができる。

要は、その説くところに「美しさ」があるかどうか、である。ここで大変重要になるのが、美的感受性というとても厄介な、きわめて正体不明な代物だ。

美的感受性とは、「正しさ」つまり、真なるもの、善なるものに繋がる唯一の道だ。これがないと、目前の「利」に負け、偽なるもの、悪なるものに垂直に転落する。

荘子に「天地大美ありて言わず、四時[四季]は明法ありて議せず、万物は成理あるも説かず、聖人は天地の美にもとづきて、万物の理に達す」という言葉がある。

荘子は、「理は美から導かれる」と述べているのであり、もっといえば、美的感受性のない人は物事の理(道理・真理)を知ることができない、と言っている。

湯川秀樹氏はこの言葉を好んだ。それは、理を極めるには美への鋭い感受性が必要なことを痛感していたからである。

 

ルーベンスの子供の絵

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ルーベンスが、自分の娘クララを描いた絵は、作者の対象への愛情が溢れている。絵を見る喜びとは、ひとつは、それを描いているときの作者の心情を追体験するところにあり、この絵は見る人を、作者と同じ幸福な気分に導いてくれる。

ルーベンスの元の絵は、おそらく実際のクララとはかなり違ったものだろう。形状や色彩を追うことで、現物以上のものを表現する、それが芸術家の本来の仕事だから、外形が似ていなくてもちっとも構わない。彼は娘を画布に写し取ろうとしたのではなく、画布の上に、自分の愛情を表現しようとしたのだろうから。

ルーベンスはむろんのこと、このクララも、この世にはいない。けれども、愛情の証は、数百年を経て、今に伝わる。「人生はみじかいが、芸術は永い」という言葉には、きっと、そんな意味も含まれている。

平等院鳳凰堂

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平等院 鳳凰

 三年前に京都に行った時に撮影。屋根の曲線が感動的に美しい。それをフリーハンドで再現できるか、挑戦してみた。・・といっても、再現できるはずはないが、それでもある種の快感がある。国風建築の曲線の美しさは眼力の伝統であり、感動の伝承でもある。この美的価値観は、現代の寺社建築でも、脈々と受け継がれている。

鉛筆画

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えんぴつが好き。匂いも書き味も性に合っている。この絵はルノアールの原画に少しも似ていないが、ただひたすらに女の子はかわいく、お母さんはやさしげに見えるように描いた。ルノアールは、裸婦の絵は皮膚に触りたくなったら完成だ、みたいなことを言ったらしいが、この絵は、かわいく見えたら、やさしげに見えたら完成だ、と思って、何度か描き直した。

 

牛と肉の間

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レンブラント「屠殺された牛」

 

 食べる前に料理の写真を撮るとまずくなる気がする。おそらく、写真を撮ると「食べ物」がたんなる「物」に見えてきてしまうからだろう。

この現象は結構深刻で、例えば焼き魚は写真にとるとたんなる魚の焼死体に見えてきてしまう。

歩いている豚や牛を見て、「うまそうだな」と思う人は多分少数派だと思う。この段階では豚や牛はれっきとした「生き物」だからだ。

牛や豚が屠殺された直後を見たら、多くの人は「豚や牛の死体がある」と思うだろう。

牛や豚の死体が手足胴体に解体されたら、多くの人は「豚や牛のバラバラ死体がある」と思うだろう。この段階では豚や牛はまだ「うまそうな食べ物」にはなりきれていない。

豚や牛が「うまそうな食べ物」になるのは、すっかり細分化されて肉屋の店頭に整列したり、焼肉店の皿にきれいに盛りつけられた時だ。ここに至って、初めて豚や牛は、豚や牛であることを止める。

写真を撮るということは、対象をわが身から突き放して客体化することにほかならず、換言すれば、欲望の対象として視ることを止めて「物」として眺めなおすことに他ならない。

今まで当たり前だと思っていた物事の認知の枠組みが消えることを「ゲシュタルト崩壊」というが、大げさに言えば、写真撮影にはこの現象に近い作用を心理に及ぼし、人間をこれまで当然だと見ていた視座から引きはがし、遠い別の場所に連れ去ってしまうような力がある。

この種のことを考え詰めていくと、だんだん気がおかしくなってきて、現世に戻れなくなってしまうような気がするからこのあたりでやめておくが、日常生活には、こんなふうな心理上の洞穴が至るところに大きな口を開けていて、まともな人間をまともでなくしてしまうような罠がいたるところに潜んでいる。

哲学とは、ある意味その穴をじっと見つめて描写する営為であったりもする。