献血の利己

【2018年5月17日】希少な血漿(けっしょう)を持つオーストラリア人の男性、ジェームズ・ハリソン(James Harrison)さんは、数千回に及ぶ献血を行い、数百万人の命を救ってきた。ドナーの制限年齢に達するジェームズさんは11日、家族や医療スタッフ、そしてジェームズさんから輸血を受けたことがある人々に囲まれ、最後の献血を行った。(AP)


 血液に特殊な成が含まれており、これまで240万人以上の乳児の命を救ったといわれる老人が、最後の献血をしたというニュースをみた。人間の幸福は、他者との幸福の共有で実現するとすれば、これは幸福の確かな一つの姿であろう。

自分もときどき献血にいくが、せんじつめると自分の「幸福」といって大げさならば「安定」のためだ。自分や親族が輸血が必要な事態になったときのために善行を積むのだ、といっても正直嘘っぽい。

献血していること自体から、自分が社会的存在である実感が得たくて行っているのであって、これはまごうことなき「利己心」の発露である。もう少し正確に述べると、人間は「利己」だけではいずれゆきづまり「利他」を志向するが、その利他も実は利己の変容なのである。

利己心も上手く起動すれば、大きな社会貢献として結集する。これは、経済的利得への「アニマル・スピリッツ」が「神の見えざる手」になって社会や世界を効率的・合理的に組み上げていく、というアダムスミスの理論とは毛色がちがう。献血には原理的には「経済的利得」が無いからだ。

輸血に必要な血液を確保する社会的仕組みとしては、過去に「売血」というものがあった。その血液収集システムを起動していたのは当然ながら売血者に支払われる金銭という「経済的利得」である。

日本において売血は、貧困層の生活の糧になったことで質の担保が損なわれる弊害があったので廃止になったが、その行為の動機から経済的利得が抜き取られてなお、システムが粛々と稼働していることは、見方によれば驚くべきことだ。

ちなみに「粛々と」という言葉は、現代の日本では「反対や抵抗の声にいっさい耳をかさずに、強引に物ごとを押し進めること」という意味になっているが、もともとは神秘的な静寂と厳かさのもとに時間が過ぎていくことを表現する言葉である。

献血ルームには純度の高い善意や奉仕の結集があり、その様相は宗教施設にも似ている。本職の宗教施設である寺社に投ずる賽銭やお布施は、神主や住職のうたかたの享楽に遣われているかもしれないが、自分から抜き取られた血液は、どこかの誰かの健康に確かに貢献しているはずだし、それは強く信じていいと思っているし、それが信じられないと現行の「献血」を軸にした血液収集システムは崩壊するだろう。

かつて人間は切実な苦悩に直面したときには寺社や教会を訪れ、神や仏に祈祷した。現代ではその機能や効能は見くびられ、代わりに「カウンセラー」や「心理士」や「精神科医」の出番が増えているようではあるが、人間の心というものは、傷ができたら膏薬を塗り、病気になったら薬を飲むと言った単純なものではない。

人間の脳の「故障」はパソコンのように論理式の組み直しや物理的な修復作業で回復するものではない。よしんばそれを「作業」だと見ても、人間の場合、それをする時の「手つき」が思いのほか重要なのである。

実生活で受けた傷は、基本的には、実生活でしか治らない。そして、カウンセラーや心理学者との「人間関係」は、そのサポートになりこそすれ、患者を治す本質的な人間関係たり得ない。

なぜならそこには施す側と施される側との「上下関係」と、職業的医療従事者と依頼者という「経済的利得」が絡まざるを得ないからだ。

人間の苦悩はすなわち人間関係の苦痛であり、その苦悩の泥沼の泥を払って人一個人が本来の尊厳を回復するには、社会において、他者と対等の人間関係を取り戻すか、もしくはどんなにささやかなものでも施す側に回ることが必要である。

いわゆる「貧者の一灯」の意味と効果はそこにある。大きなお世話だが、何か悩みがあり、なにをどうしていいのかさっぱりわからなくなったら、まずは献血に行くとといい・・かもしれない。少しでも何かを感じ、何かを得ることができれば拾いものだし、わずかな時間や注射針を指す痛みで、癒される病や、救われる命があるなら望外ではないか。