丹羽宇一郎氏講演会「戦争に近づくな」②

今、トランプ氏は北朝鮮政策において、成果を出しつつあるように見える。彼はある意味「毒」の分泌体であって、今回の「成果」は北朝鮮という毒が全土に回った夜郎自大国家を、毒をもって制しつつある(ように見える)ことだと観ずることができる。しかし、たとえ成果が出たとしても、トランプ氏の政策の主成分が「毒」であることには変わりはない。

トランプ氏は、その毒を、「保護貿易」にも、「イラン核合意」にも、「イスラエル首都問題」にも、「プーチンのロシア」にも、自国の司法省にも同じようにバラマまいている。それぞれが、どう化学反応し、事態がどう好転し、どう悪化するかの見立てなど、ほぼお構いなしに。

先日、東京都の小池百合子知事は、豊洲移転の難航で実害を被った業者の難詰に対して、「私を選んだ都民が悪い」と口走ったようだが、おそらくこれは裸の本音である。

おそらくトランプ氏も、今似たような心境だろう。「俺をトップに選んだ以上、俺がすることのすべての罪過を引き受けるのは選挙民だ。俺には責任のとりようがない」と、彼は考えている。彼はもともと大統領選挙に出馬するだけで満足で、当選する気など滅相も無かったぐらいなのだから。

毒々しい破天荒な政策を強引に押し進めて、あとはどうなるか知ったことではないが、何か成果が出れば自分の手柄になるので結果オーライ、失敗しても任期満了で消えていくだけ、というスタンスは日銀の黒田総裁にも似ている、と丹羽さんは説く。

今後、黒田氏が徹底的にぶっ放しつづけた「バズーカ砲」が日本をどんな結路に導こうとも、とどのつまりは「官僚組織」にすぎない日銀のそのトップは、ひとたびその地位を離れれば、もはや何の責任も無いし、有ったとしてもその責任は巨大すぎて、生身の個人では引き受けようがない筋合いのものだ。

政府のスーパーバイザー的な存在だった浜田宏一氏や、日銀の副総裁を退官した岩田規久男氏は、いわゆるリフレ派の理論的支柱として、経済についても赤子に等しい知見しかない安倍晋三の焚きつけ役だった。

浜田、岩田の両名は、すでにかつての主張を「誤りだった」「単純にすぎた」と認め、その有効性の大半を撤回している。これは北朝鮮の「主体思想」の作り主である黄長菀ファン・ジャンヨプ)自らが、韓国に亡命したことにニュアンスが近い。

孤塁を守っている安倍・黒田ラインが「アベノミクス」成功のよすがにしているのは、つまるところ「失業率の回復」と「株価の上昇」と「訪日外国人の増大」をあらわす数値である。

ちなみに、

「失業率の回復」は、生産年齢人口の減少という負の側面と、老齢人口の増大による介護関連事業需要への供給という要因が大きく、アベノミクスとの因果関係はほぼ無い。

「株価の上昇」は、いわゆる官製相場の色彩が濃く、金融緩和で円の価値が下がっているのだから値段が相対的に上がって当然でもあるし、そもそも実体経済とは不連続で単なる「美人コンテスト」にすぎない「株価」を、金融政策の成功の指標にすること自体が誤っている。

「訪日外国人」の増大は、日本の高度な文物・サービスが、金融緩和による円安で痛ましく買いたたかれている面が大きい。なお一度「安値」になった日本が、本来の価値評価を取り戻すのは容易ではないだろう。

先走った独り言はこの辺にしておくが、丹羽さんがさらに声のトーンを上げたのは、安倍氏の「憲法改正」への一連のふるまいについて語っていた時である。

立法府の成員である国会議員としての立場ならいざしらず、安倍氏は行政府の長として憲法を遵守するもっとも枢機な立場ありながら、恣意的な解釈をでっちあげ、あまつさえ「改憲」まで唱えてているわけだから、これは重大な憲法違反である。

この段階ですでに重大な「法律違反」だが、さらに深刻なのが、安倍氏は、かつての「わたしは立法府の長」発言で図らずも明らかになった通り、司法・立法・行政の「三権分立」について「判っていない」ことだ。

この「判っていない」と言う意味は、ロジックあるいは学問的理論として「知識がない」ということではなく(彼は成蹊大学という立派な学校の法学部を出ているのだから、大学の名誉のためにもそれだけはあり得ないことは前提にしておきたい)、

彼は「三権分立など、机上の建前にすぎない。行政権力は司法にも立法にも及ぶのだ」と思いこんでいる。思いこんでいるだけでなく、その思いこみをもとに規を越えた行動することに、なんの躊躇もない、ということだ。これでは「三権分立が判っている」ことには、到底ならない。

安倍晋三の「政治権力絶対」の価値観はトランプ氏にも共通するものだが、この思想(と言うに値しないが)の根底にあるのは、「政治権力絶対主義」の専横が招いた惨禍を繰り返さないために、人類が編み出した「三権分立」という叡智への敬意も、その歴史的経緯の尊重も全く念頭にない、ということである。

こういう無知な人間が政治権力を握ることの恐ろしさを、人々はもっと実感してもいいと思う。

これを司法界になぞらえれば、法律的思考の訓練や、条文理解、判例知識が皆無の、ただ「他人を自分の思うままに裁断したい」という、子供らしい欲望をたずさえたままの幼稚な人間が、裁判官の地位につくのに似た恐ろしさである。

彼は政治権力によって、「憲法の番人」である内閣法制局長官の首をすげ替え、最高裁判事にも自分の息がかかった人物を潜り込ませた。

司法も立法も、広い意味での行政組織の一部門に組み込まれているわけだから、絶対的な政治権力を握った行政府の「長」がその気になれば、司法や立法を牛耳ることも仕組み上は可能ではある。

しかし、「この領域に自分が足を踏み込むのは、畏れ多くてできない」という、ミッションの壁への神聖な感覚が彼にはないから、それをするにも何の造作も無い。俗に「無知ほど強いものはない」と言うが、それを地で行っているのが安倍晋三氏なのである。

また、安倍氏は「現憲法戦勝国アメリカの押しつけだから変えなくてはならない」というロジックを語る。もし「アメリカの押しつけ」を排すのが本意ならば、日本国憲法よりも、日本中に散らばる軍事基地の撤去や日米地位協定の撤廃をアメリカに主張する方が、よほど国民の共感を得やすい。

憲法改正ではなく、軍事基地撤去や日米地位協定破棄に、安倍政権が本腰で取り組めば、政権寿命は5年どころか10年にも20年にもなるだろう。しかし彼はそれをすることはない。

なぜか。

その理由は、「軍事基地撤去」や「日米地位協定破棄」の実現は、彼の祖父岸信介をかつて苦しめた「反安保運動」の事実上の成就に他ならないからだ。言葉を換えれば、それらが実現することは、日本政府が左翼運動に負けたことを意味するからだ。

かつて、日本に米軍が駐留している意味は共産主義勢力のアジアでのくびきとしてであった。冷戦後は、それが、中東への軍事拠点としてという位置づけに移り、さらに現在は南下する中国への対抗拠点という位置づけになっている。

しかし、ともに核大国であるアメリカと中国が戦争をすることがあり得ない以上、日本に米軍が駐留する意味は、日本と中国が戦争したときにアメリカが加勢する以外にはない。

では日本と中国は戦争するのか。少なくとも日本からそれを仕掛けることはできない。両国の軍事力の差は圧倒的で、その差は今後開く一方になるだろう。無理矢理、戦争を始めたとしても、かつての対米戦争以上の悲惨な結末で日本は中国に完全無条件することになる。

日本は中国とは戦争ができない。「敵」にできない相手とは「友」になる以外の外交方針は無い。

現在、朝鮮半島は「雪解け」ムードだが、アメリカがあまりに性急な成果を北朝鮮に求めるようだとこのムードはたちまち暗転し、冷却し、凍結し、ひび割れる可能性がある。そもそも北朝鮮が核戦力を開発したのはすぐに手放すためだったはずがないのだから。

北朝鮮は「段階的」な「半島全体の非核化」に協力することを意思表示したのであって、「即時的」な「自国のみの非核化」を承諾したわけではない。

今後、この彼我の認識の根本的なギャップはどんどん明確になっていくだろう。そのとき、重要な平和へのナビゲーション役を果たすことになるは、おそらく韓国でもいわんや日本でもなく、中国である。

安倍日本は、この局面では何もできないし、何をする必要もないし、何も求められていない。せめて平和への流れに水を差すようなまねだけはするべきではないが、その程度の我慢すらできないのではないかと思うほど、自分は安倍晋三と言う人間を信用していない。

今回の丹羽宇一郎さんの講演のタイトル「戦争に近づくな」の意味について最後に触れると、

日本は軍事力は言わずもがな、国力的(経済力・政治力・人口構成)にも現代戦争の国家総力的持久戦を勝ち抜く底力がない。つまり、いくら法制上海外派兵が可能になっても、物理的に「日本は戦争ができない国」であるというプラグマティズムには何の変わりもない。

こういう国が自国の平和を守るには、「戦争に近づかない」以上の有効な手段はない。たとえば、ヤクザと喧嘩する体力や体術を持たない人間は、ヤクザとは関わりを持とうとはしないだろう。これが丹羽さんの講演タイトルの意味であり、自分も、今後日本の外交が守るべき基軸は、これ以外にあり得ないと考える。