牛と肉の間

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レンブラント「屠殺された牛」

 

 食べる前に料理の写真を撮るとまずくなる気がする。おそらく、写真を撮ると「食べ物」がたんなる「物」に見えてきてしまうからだろう。

この現象は結構深刻で、例えば焼き魚は写真にとるとたんなる魚の焼死体に見えてきてしまう。

歩いている豚や牛を見て、「うまそうだな」と思う人は多分少数派だと思う。この段階では豚や牛はれっきとした「生き物」だからだ。

牛や豚が屠殺された直後を見たら、多くの人は「豚や牛の死体がある」と思うだろう。

牛や豚の死体が手足胴体に解体されたら、多くの人は「豚や牛のバラバラ死体がある」と思うだろう。この段階では豚や牛はまだ「うまそうな食べ物」にはなりきれていない。

豚や牛が「うまそうな食べ物」になるのは、すっかり細分化されて肉屋の店頭に整列したり、焼肉店の皿にきれいに盛りつけられた時だ。ここに至って、初めて豚や牛は、豚や牛であることを止める。

写真を撮るということは、対象をわが身から突き放して客体化することにほかならず、換言すれば、欲望の対象として視ることを止めて「物」として眺めなおすことに他ならない。

今まで当たり前だと思っていた物事の認知の枠組みが消えることを「ゲシュタルト崩壊」というが、大げさに言えば、写真撮影にはこの現象に近い作用を心理に及ぼし、人間をこれまで当然だと見ていた視座から引きはがし、遠い別の場所に連れ去ってしまうような力がある。

この種のことを考え詰めていくと、だんだん気がおかしくなってきて、現世に戻れなくなってしまうような気がするからこのあたりでやめておくが、日常生活には、こんなふうな心理上の洞穴が至るところに大きな口を開けていて、まともな人間をまともでなくしてしまうような罠がいたるところに潜んでいる。

哲学とは、ある意味その穴をじっと見つめて描写する営為であったりもする。