イメージわくということ

 最近、ほぼ三十年ぶりに剣道を再開した。やってみて驚くのは、からだが思ったより動くのと、相手と対峙したときに攻防のイメージがまったくわかないことだ。

自分の予測ではこれは逆だった。おそらく昔とった杵柄で、攻防のイメージはわくのだが、身体がうまく動いてくれないことを予想していた。体がおもったより動くのは、再開に向けて、肉離れを起こしたりアキレス腱を切ったりするのがとても怖かったので、素振りや足さばきをひょっとすると現役時代以上に入念にやりこんだことと、長年水泳やゴルフといった他のスポーツを、お遊び程度だが、継続してきたからだろう。

そして、イメージがまったくわかないのは、やはり過去に積み重ねてきた対戦の記憶を失っているからだとおもう。現在自分は、ある卓越した剣道家に指導を仰いでいる。卓越したといっても、段位や戦績などで剣道業界で位極冠を得ているという意味ではなく、その稽古での実力や向上心、研究心において、おそらく現代の剣道界では並ぶものはいないだろうと思われる先生である。

先生は還暦をすでに越えているが、三十年もブランクがある自分などとうてい歯が立たず、現役の警察官と対峙しても、試合ならともかく、稽古ならば一歩も引けをとらない剣道ができる人である。

自分は剣道界では多少名のある大学で剣道をし、全国レベルで活躍した選手と竹刀を交えたり、その戦いぶりを間近でみてきたが、この先生は自分のみるところ、剣道の「天才」だといっていいと思う。(存命ではもう一人日本の剣道界には「天才」がいるのだが、ここは自分の剣道観を一席ぶつことが主旨ではないので割愛する)

その先生の剣道ぶりを道場で、あるいはユーチューブでアップされている動画で拝見すると、先生は相手と対峙しながら、さまざまな攻防の豊かなイメージを縦横無尽に膨らませていることが伝わってくる。交戦のデータベースが重層的に保管されていて、一瞬の刹那でそれが検索され、体が必要な動作をアウトプットする。

まるで株式のロボット取引のような人間ばなれした瞬時のレスポンスを繰り返す一個の高度な「剣道装置」として、先生が道場に置かれている、ということがよく判る。

「よく判る」というのは、自分にもかつてそういう装置(ひどいポンコツ品だったが)だった時期が、たしかにあったからだ。 

また、自分は剣道をしていない三十年間、仕事以外のプライベートで何をしていたかというと、ほぼ「文章を書く」ことと、「絵を描くこと」に費やしてきた。

いうなれば、剣道のかわりに、「文章道」と、「絵画道」にいそしんできたのである。この両分野においては、自分は曲がりなりにも、それなりの経験のデータベースとその発現を機能とする「文章装置」であり「絵画装置」の体を整えていると(自分では)思っている。

先生の道場での高度なありようと、自分における「文章道」や「絵画道」における状態から観るに、いまの自分は一個の「剣道装置」としては、まるで作動していない、電源すら入っていないと思わざるを得ない。

とはいえ、昔の「ポンコツ剣道装置」にまずは戻らなくては、とも実は思っていないのである。このあたりは長くなるので後に譲るが、とにかく、モノやヒトと向き合ったときにどれだけ有用な、豊かな可能性のイメージを脳内に鮮明に描き出すことができるかが、剣道や文章や絵画製作において、死活的に重要であること、それを三十年ぶりに再開した剣道で、先生に気づかせていただいたのである。