正攻法では通じない

 以前ある人が「テニスは相手のコートの空いているところに球を打ちあう卑怯なスポーツだ」と言っていた。一見子供らしい意見だが、聞き流すにはもったいない指摘だと思った。相手が待ち構えているところに球を打ち、球を投げ、竹刀を振り下ろし、かつそれを突破するのは一つの醍醐味でもあるからだ。

ただリデルハートの戦略論によると、そういった力任せの「直接的アプローチ」で勝利を収めることができるのは、彼我に圧倒的な実力差があればこそで、通常の人間同士、あるいは集団同士の闘いは「搦め手」を突く戦略、つまり「間接的アプローチ」が、勝ちを得るにはどうしても必要になる。

日露戦争における旅順要塞攻撃は当初は集団肉弾攻撃という「直接的アプローチ」が採用された。長州で吉田松陰の兄弟弟子でもある乃木将軍は、「武士」として正面突破以外の戦略を潔しとしなかったのかもしれないが、その結果乃木将軍の二人の息子をはじめ幾千幾万の日本兵が死屍累々となった。

その後、日本軍は、東京湾に架設されていた大砲を戦場に移設し、ロシアのコンクリート要塞に間隙なく空中攻撃を加えるという間接的アプローチによって事態を打開する。しかし地上戦を空中戦に切り替えて戦況を一変させる手法は、古くは天草四郎が立て籠もる原城攻防戦で幕府が採用したし、

旅順攻略戦のほんの数十年前の、上野山の彰義隊戦争のときに、官軍の大村益次郎が選択した方法でもあった。大仰な戦略眼も、緻密な戦術知識も要らない。

ほんの少し事態を見る角度を変え、ほんの少し観察眼のレンズを磨くだけで、難攻不落の要塞は張り子のトラになり、相手コートの空きスペースがまざまざと見えてくるものなのだろう。これは、大軍を率いる将士が必要欠くべからざる感性でもある。

さらにいえば、当時の敵国のロシア軍は、ただ「シベリア鉄道」という糸のようにか細い補給線だけに依存した軍隊であるという現実に「気が付く」ことができれば、ただその飴のように延びたレールのどこでもいいから爆破すればロシア軍はたちまち窒息することも知っただろう。

効果的な間接的アプローチの手法に、気づくか、気づかないか。その分かれ目によって、数万人の人間の血が、流れなかったり、流れたりする。これは歴史の「宿命」ではない。人間の力で、どうとでもできることだと思う。