巡る花

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昭和記念公園

 桜の花が咲き始めるころになると、「命短し恋せよ乙女」という歌の一フレーズを思い出す。桜は咲いたそばからすぐ散っていく。その散りざまから「日本人の滅びの美学」なんぞを見出そうとすれば見出せるのかもしれない。確かに桜の花の命は短いが、翌年も同じ枝から花は咲く。つまりその年のシーズンに咲く花の命は確かに短いのだが、開花は毎年繰り返されるのだ。

人生においても、確かに「乙女」の命は短いのかもしれないが、人間の「花」は幾度となく咲くチャンスが巡ってくる。たとえば、俳優ならば、ます子役として開花し、それが散ったあと、今度は若者としての花が咲き、またそれが散ったあとに今度は中年役という花が咲き、それが散れば老人役という花が巡ってくる。(さすがに死んでしまえば役はないが、人々の思い出の中に生きる、という裏ワザもある)もっとも、俳優人生において、そんなに幾度も花を咲かせた幸福なケースは稀だろうけれど。


俳優に限らない。人生にはその時々で「花の盛り」がある。そういうことを識らずに、「人生の花は若いうちにしかない」と思い込んでしまうと、「若さに絶対的な価値がある」という幻想の囚われ、俗流の「アンチエイジング」とやらにハマったりして、あたら次の花が咲くチャンスを棒に振ってしまうことになりかねない。


たとえば、若いうちは引っ込み思案で窮屈な思いをして生きていた女性が、長じて、仕事をしたり、結婚して子供ができるなどの人生の経験を積み重ねているうちに、だんだんと一人の人間としての自信が雪のように降り積もっていき、中年になってから、若いころとは別人のように活発に人に関わる人格に変貌したとしよう。こういうことはよくあるに違いない。

 

その場合、その女性は、まごうことなき中年としての人生の「花」を咲かせたのであり、そうであるならば、彼女は「若いころがわたしの人生の花だった、ああ、あのころに戻りたい」など間違っても思わないだろう。もちろん、人生の花を若いころに咲かせるのも素晴らしい、しかし、花が咲くチャンスは幾度か巡ってくるものだから、それを一度くらい見逃したところで焦るには及ばないだろう。それを桜はわれわれに教えてくれている。