病者の心

 東京オリンピックで金メダルが期待されている水泳選手が、白血病に罹患していることを公表したら、ある大臣が「がっかりした」とコメントし、それに対する糾弾や、擁護の声が交錯している。 

おおまかにいって、糾弾するのは反安倍政権、擁護するのは親安倍政権の人たち(若干の例外はあるが)で、一人の人間の命に関わる重病が政争の具になっていることにおぞましいような醜悪さを覚える。 

この選手はまだ18歳であり、18歳といえば、外貌はさておき、感受性的にはほぼ子供の延長線上にいると言っていいと思う。昨今、白血病は「不治の病」ではなくなり、7割がた治癒するといわれるが、逆に言えば三割は治癒せずそのまま亡くなっていくことではあり、そういう可能性を目の前にしてるだけで、心は孤独と絶望に押しつぶされていくものであろう。 

もっとも、この人は通常の18歳ではなく、日本はもとより世界中から注目されている存在だから、周囲からの巨大な応援も得られるようにも見えようが、一人の人間が苦境に陥ったとき最後に頼りになるのは「家族」以外ありえないことに、有名人と一般人の区別はない。 

厳しい現実に直面している選手本人やその家族にとっては、一大臣が何を言おうがどうでもよく、目の前の過酷な現実にどう立ち向かっていくのか、あるいは受け容れていくのかで心は精一杯のはずであり、大臣はもとより、そのコメントの是非を論じている人々は、いずれにせよ選手や家族からははるか遠く離れた場所にいる。 

それにしても「天」は、あるいは「神」は、なぜ人間にこのような過酷な試練を与えるのだろうか。そういうことをあらためてこのニュースに接して考えた。この選手は「神は越えられない試練は与えないはず」というコメントをSNSで発信したらしいが、人間は越えられない試練に直面するからこそ死んでいくのである。 

そして、越えられないような試練に直面するからこそ、人間は神について、あるいは人生について、あるいは人間の精神の奥底に横たわる孤独について、深く、そして緻密に考える、あるいは考えざるを得なくなる。そしてその一人ひとりのか細い思考の軌跡は、よりあつまって人類の巨大な思考遺産として受け継がれていく。 

福永武彦は「病者の心」というエッセイの中でこんなことを書いている。「肉体の点に関しては病者は医者の手に全てを委ねていればいい、それは大舟に乗ったようなものだろう。が、精神に関しては、そこに問題がある。精神に関しては、病者は何一つ頼るものはない。彼の精神はただ彼一人の責任である。ドラマはそこから始まる」 

ここでは、自分が前述した「家族の支援」すら微力なものとして退けられ、徹頭徹尾人間は一人で病と闘うのだ、という視点が吐露されている。自分はこれも世の真実であり、人間の現実だろうと思う。冷酷に見えようが、残忍だと称されようが、あくまで、痛みや苦しもは個人的なもので、本当の意味において、他者とそれを分かち合うことなどできはしない。 

福永武彦はそこから「ドラマ」が始まる、と見たが、おそらくは、その詩的な卓見すらも、彼の病苦をいささかでも軽くすることはなかったのである。 

「苦しむことに限りはない。特に若くして病に冒され、人生の最も貴重な時間を空しく病床に呻吟したものは、言い難い痛憤を心の中に刻み込んでいる。彼の失ったものはあまりにも大きい。たとえ療養所の中で、病者らがベッドを挟んで談笑し、人間同士の暖かい友情が言葉と言葉とを結んでいても、眠られぬ夜に、一人ひとりの孤独は限りなく深いのである。どのような神経質であり、どのように病的であっても、僕らは相互に人を責めることはできない。そして他人からも真の慰めを得ることも出来ないのである」 

一面、救いようがない言葉だが、逆説的にはなるが、病者を孤独の暗闇からいささかでも救いあげ、その心を慰める力を持つのは、実はこういった言葉ではなかろうか、という気もする。