リス使いとニセモノのゴッホ


花みどり文化センター 昭和天皇記念館

 この絵を描いているとき、少し離れたところで、放し飼いのリスと戯れている中年男性がいた。

リスはとても中年男性になついていて、ポイと投げ飛ばされても器用に着地して、すぐに飼い主の膝の上に駆け戻ってくる。リスに気づいた通りすがりの人が、次々に中年男性に声をかけ、しばらく立ち止まり、リスの様子をおもしろそうに見ている。「黒山の」とまではいかないが、絶えず人だかりができている。とくに子供はとても喜んでいる。

一方、絵を描いている自分の方には人だかりはできない。念のために断っておくが、人だかりができて欲しいわけではない。ときおり、後ろから画面をのぞく人の気配を感じるが、声はかけられない。当然ながら、屋外パフォーマンとしては、「お絵描き」より、「リスの放し飼い」の方が圧倒的に上だ。

おそらく、描いている作品の巧拙より(もちろんその影響はゼロではないだろうが)、絵を描いているという動作そのものがきわめて地味、かつ果てしなく退屈で、一般大衆の興味を喚起するギミックに乏しいのだろう。

自分はインターネット上で公開されている絵を描く過程を録画し早回しで再生する動画を見るのが好きだが、こういうものを「見もの」だと思えるのも、そもそも絵を描くことが好きだからだと思う。絵が好きでなければ、こんな動画、縁なき衆生である。一方、「リス」は、たいていの人がおそらく好きだ。ようするにあちらの方が、一般ウケするのである。

しかし、こんなことも考えた。

たとえば、ゴッホそっくりに変装した人物が、道具一式を携え登場し、街中で、やおらイーゼルを立て、キャンバスを置き、本家ばりの早がきのタッチで、本家のテイストそのままの絵を描きだしたら、どうなるだろうか。

おそらく黒山の人だかりができて、スマホ撮影会が始まり、一気にSNS上で拡散し、ひょっとするとたとえ瞬間風速でもネット有名人ぐらいになるのではないか。その場で書き溜めた作品の即売会でもやれば、一石二鳥である。

本物のゴッホその人は、生存中一枚しか絵が売れなかったというから、彼が絵を描ていても、オーヴェルでも、アルルでも、ほぼ誰も見向きもしなかっただろう。

一方、二十一世紀に登場したニセモノのゴッホは、いたく世間注目を集めることになる・・かもしれない。でも、絵を描くのは時間がかかるので(特にゴッホのような油彩画は)、やっぱりパフォーマンスとしては間のびしすぎて、成立しないかもしれない。

絵を描きながら、もしモネがこの風景を描くとしたらどう描くだろうか、ということが気になった。当然ながら、自分のテイストとはレベルも方向性もまるで違うものを描くだろうが、それこそが絵画における創造なのだと思う。

前田青邨安田靫彦の、絵に関するエッセイを立て続けに読む。絵に関する文章は、画家の手になるものが圧倒的によい。そんなに優れた画家でなくても、どんなすぐれた評論家の絵画論より数等読みやすく、どこかしらに利益がある。