2018_07_15 昭和記念公園

浦沢直樹が、その作品中のキャラクターに語らせた言葉に以下のようなものがある。

「その物語がハッピー・エンドかそうでないかは、どこで終わらせるかによる」

有り体に言えば、人生の最後は、すべて死で終わるのだから、ハッピー・エンドで終わるタイミングを見送って、物語を際限なく続けていけば、すべてが「バッド・エンド」に収斂すると言えなくもない。

河野裕子の歌に、「いろいろなことありしかどとどのつまりはバプテスト病院213号室のベッド」というものがある。

生まれおちてから、喜怒哀楽いろいろあったけど、一筆書きの終着点で、とどのつまりはガン病棟のベットの上にいる、というシニカルな色合いのある歌だが、確かにそういってしまえばそうとしかいいようがないような、一種の酷薄さが人生にはある。結婚しようが、子をなそうが、最後は「おひとり様で終わる」ということを言う人もいる。

人生はサーフィンに似ている。途中はどんなに颯爽と波に乗っていたときがあったにしても、最後はひとしく大波の飲まれてクラッシュするように終わる。ごくまれに、岸辺に着地するように穏やかに終わることがあるが、あれはあれで、なんだか物寂しく、すこし間抜けな感じがする。

しかし、だから人生は虚しい、という結語に飛びつくのは早計である。逆に、いつかは、突然のように終わる人生であることを誰もが心のどこかで了解しているからこそ、それを輝かせよう、今この時を愉快に過ごそう、という意欲が生じるのではなかろうか。

花はいつか散るから美しいのであって、この花はいつまでも散らないという知覚はどこかに不気味で興醒めなものを伴っているのが普通である。青春の輝きが美しいのも、いつか失われることを観察する人が知っているからだ。彼らは自分の青春の輝きを終えた経験から、その美しさが一過性ものであることをよく知っている。

「人生は短く、芸術は永い」という言葉に準えれば、個々人において青春の輝きは移りゆく短いものだが、青春の輝きという現象は永遠で普遍的なものだ。そういう形で、人間はひとりひとりが「永遠」にこぞって参加しているのだ、ともいえる。

そして、かつて自分もそこにいたという記憶があれば、終末の苦難をいくぶんでも軽くできるのかもしれない。

食事がおいしく感じられるもの、いずれをそれを食べきってしまうことを知っているからだ。ただ、その真実は、始終直視しているのではなく、心のどこかで、できれば無意識に了解しているぐらいがいいのだろう。その塩梅は、なかなか難しいのであるけれども。