埼玉県立近代美術館 浦沢直樹展

 埼玉県立近代美術館に、「浦沢直樹展」を観に行く。

 京浜東北線北浦和駅にはじめて降りる。北浦和駅どころか、浦和という土地を踏むのも初めてだ。

 浦和といえば、熱狂的なファンがいる浦和レッズの本拠地、というよりも、個人的には水沼貴史を擁する「浦和南高校」による全国高校サッカー選手権制覇、というイメージの方が先行している。

水沼や木村和司長谷川健太がいたころの横浜マリノス(日産マリノス)に、三浦カズ北澤豪やラモスがいたベルディ川崎(読売ベルディ)は、負けてばかりいた。実力的には両チームは拮抗していたと思うが、おそらく相性的にマリノスに分があったのだろう。

埼玉県立近代美術館がある北浦和公園はかなり広大で、そこかしこでサッカーをする子供たちの歓声であふれていた。さすがにサッカーがさかんな土地柄である。

さて浦沢直樹である。浦沢氏は、今や押しも押されぬ、日本のトップ漫画家である。現役の漫画家で、彼に実績と力量で比肩しうるのは、わずかに「スラムダンク」作者の井上雄彦のみだろう。

井上氏は、男の色気は描けるが、女の色気はやや苦手の印象があるが、浦沢氏は、両方いける。キャラクターに色気があることは、作品の大きなアドバンテージである。

展示会場には、過去の大ヒット作品の原画が大量に掲示されていた。ただの原画展と違う所は、描く作品ごとに、一巻丸ごとの原画が展示されているところだ。

自分が惹きつけられたのは、かつてビッグコミックスピリッツにおける連載をリアルタイムで読んでいた、浦沢氏の出世作である「YAWARA!」の最終二十九巻の原画群である。

最初は順番に眺めているだけだったが、どんどん話に引き込まれ、何度も涙が出かかって困った。この最終巻では、ヒロインの猪熊柔は、「バルセロナ五輪で金メダルをとる」のだが、読者に息もつかせぬライバル(旧ソ連のテレシコワや、カナダのジョディ)との、スピード感豊かな技の掛け合いや、声の限りに応援する群像、親族・友人・日本国民のありようが、「あしたのジョー」の最終巻の世界タイトルマッチと、よく似ている。

ついでに言えば、主人公の恋愛のパートナー(あしたのジョーでは白木葉子、YAWARA!では松田記者)が、いったん車で主人公から離れ、思い返して戻ってくるところも似ている。白木葉子が戻るのは矢吹丈の闘うリングで、松田記者が戻るのは猪熊柔の国民栄誉賞授与式の会場、という違いはあるが。

この巻に込めた作者の魂の熱量は凄まじい。おそらく、浦沢氏は泣きながら漫画を描いている。ずるい言い方だが、泣いていなかったら、それはそれですごい。

通常の画家やイラストレーターが、涙を流しながら絵を描くことなどあり得るだろうか。あり得るのかもしれないが、ちょっと想像がつかない。漫画にはキャラクターがいて、ストーリーがある分、絵に、筆先に、作者の思い入れが乗りやすいのだろう。

おそらく、作者自身の感動の十分の一ぐらいが読者に伝わる。逆に言えば、読者を感動させるには、作者は読者の十倍は感動しなくてはならない。これは大変なドメインであると同時に、これほどやりがいと快楽に満ちたミッションも、世の中にそうはない。

浦沢氏自身は、自分のことをマイナー的な資質の人間だと位置づけ、「YAWARA!」のような向こう受けする王道作品を描くことは、本当に自分が描きたい作品を描ける地位を得るために戦略だった、という言い方をしている。
 
どこまでがポーズで、どこからが本音なのかわからないコメントだが、もし彼自身が言う通り、こういう作品を戦略的に作りえたとすれば、もはや作者は嘘つきモンスター、もとい創造の魔人といってもいいだろう。

展示会場には、マンガの原画と共に、大きく拡大された絵が掲示されていた。彼の絵は、拡大するといっそう冴え冴えとしてくる。力感も溢れてくる。通常、絵画は拡大するたびにアラが目立ってくるのが普通だが、逆に緻密さや動勢がレべルアップするのは格別のことである。


展示場内で放映されていたビデオで、浦沢氏が「もし自分の子供時代に、好きな漫画家の原画展があったら、(その衝撃の余り)卒倒していたかもしれない」と述べているが、この感じはよくわかる。原画には印刷物からは蒸発している独特の神々しさと生々しさが定着しており、それを見る人に与えるインパクトは、有名人本人に至近距離で対面するのに似ている。

「有名なサッカー選手にワンポイントレッスンをしてもらったのが、サッカー選手を目指すきっかけになった」という話も大いにありそうだし、少年時代に漫画の原画をみて、その迫力に魅了されて漫画家を目指すようになる、というのも少年少女の自然な心の動きのように思う。


なお、最近の彼の絵には、ペンの入り(引き始め)ところに「震え」が散見されるようになった。このペンの震えは手塚治虫の晩年にも見られたもので、あまりこれが頻発するのも好ましくないのだろうが、時折顔を出す分には、ある得体のしれない魅力を感じさせる不思議な線である。

古典落語の名手が言い淀んだんだり、発声を噛んだりするのに似ているのかもしれないが、浦沢氏自身はこのおそらく名人だけが直面する「震え」とどう対峙しているのか、一度訊いてみたい気もする。