丹羽宇一郎氏講演会「戦争に近づくな」①


 伊藤忠商事元会長で元中国大使の、丹羽宇一郎さんの講演「戦争に近づくな」を聴きに、早稲田大学にいく。参加者に高齢者が多い。平均年齢はおそらく六十才を超えている。

動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?time_continue=97&v=r7MUuR6A0Ks

歴史上、国家というものは、近隣弱小国に対して、兵糧攻め経済制裁)をするか、一気に攻め落とす(軍事力行使)かのいずれかのやり方で、自国有利の状況をつくりあげ、勢力の維持拡大に努めてきた。その国家の性向は未来永劫変わらない、この前提から思考を始めるべきだと、丹羽さんは言う。

人類史から戦争状態を放逐するのは不可能である。カントは「永遠平和のために」の中で、「人間関係や社会のデフォルトは戦闘状態である」と説き、「平和というものは意識的に作り上げるものだ」と規定した。

国のリーダーは、戦闘状態がデフォルトである現実に抗して、いかに苦心して平和を作り上げるか、あるいは、いかに現存する平和状態の継続するかが使命であって、わざわざ「戦争ができる条件」を整えるのが仕事であるはずがない。

こんな当たり前のことを、ことさら言わなければならないほど、今の日本の状況は異常である。

丹羽さんは、日本が戦後七十年以上戦争をせずにすんだのは、日本国憲法九条が存在していたからだけではなく、社会党共産党労働組合学生運動などの左翼勢力が反戦運動を展開していたからだ、と説く。

自分は共産主義を肯定したことがなく、そこを基調底音にしてきた左翼運動も毛嫌いしてきたから、この丹羽氏の見解には承服しがたいところがあるが(丹羽さんは名古屋大学在学中学生運動の闘士だったらしい)、これには一理あるのかもしれない、とも思う。

どんなささやかなものでも「抵抗を受けている事実」や「自分の考えが否定されている現実」は、人間に異様な圧力をかけるもので、権力者も人である以上、御多分に漏れないからだ。

福島の原発事故まで、自分は世の原発反対運動に抵抗感を覚えてきた。これは原子力発電所が危険だとか結局高くつくのだという客観的評価ではなく、「反原発運動を推進しているのが左翼勢力だから」という理由だった。

今自分は、社会運動は、その運動体が拠って立つ党派性や政治信条をもとに、その妥当性を判断してはならないということを知っているし、誰が強弁しようが、誰が否定しようが、「戦争はダメ、平和がよい」の自明さは動かないことも確信している。

「一概に戦争はダメとか、平和がいいとかはいえない。なぜなら、戦争は将来の平和を目指して行うことがあり、軍隊は防衛を主眼として存するのだから」というのはいつの時代も変わらない施政者のロジックである。

しかし、歴史上多くの戦争は平和や調和の実現を目指して行われ、あらゆる軍隊は「防衛」「自衛」の名を冠している事実がある。それすら知らない無知な人間が何を口走ろうが、それは聞くに値しない。

林房雄は「一つの戦争をまともに生き抜いた者のみが次の戦争を欲しない。然らざる者は「終戦」の翌日から、再び戦争を開始する。」と述べた。現在、第二次世界大戦、太平洋戦争を「まともに生き抜いた」世代は死に絶えようとしている。その語りを継承しようという動きもあるが、悲惨な体験の実態は果たして伝承できるものなのか。自分は難しいと思う。二つ理由がある。

戦争体験の口承が難しい理由は、第一に、あらゆる体験は実体験者による語りでないとリアルさがないからである。よしんば地域伝承の昔話のような語りができたとしても、その場で生じる聴衆の疑問を明らかにしたり、発せられる質問に答えることは難しい。

「講釈師見た来たような嘘をいい」という言葉があるが、その「講釈」の場に漂わざるをえないいかにもフィクションめいた「嘘くさい」空気は、どうにも払拭できるものではないだろう。

徳川家康は「真らしい嘘をついても、嘘らしい真を語ってはならない」と戒めたという。この言葉の解釈は難しいが、口伝された戦争体験が「嘘らしい真」に堕してしまえば、その弊害もいずれ明らかになっていく。「ああ、またこの手の嘘話か。自分が経験したことでもないのによく言うよ。でも面倒だから聴くだけ聴いてといてやれ」と、却ってその事実が軽く扱われるようになるだろう。

司馬遼太郎の歴史語りのようなものにすればいいのではないか」という考え方もあるかもしれないが、あれを行うには途方もない教養と芸が必要であり、当然ながら、誰にでもできるものではないのである。教養も芸も無い人の「語り」は逆に、作り話の弊害さえも生みかねないだろう。

第二に、戦争体験は、たんなる「銃後の空襲体験」や「辛い徴兵体験」や「戦場での飢餓体験」といういわば受動的体験にとどまらないところにある。

「一つの戦争をまともに生き抜いた」人たちが、自己の戦争体験の詳細な叙述には口をつぐみ、一般論としてのある意味陳腐な「戦争反対」のみを口にしがちなことがあるのは、「その被害体験が余りに悲惨で思いたくないから」という理由の他に、価値観が転換した戦後社会において、自己の戦争中の能動的(あるいは加害的)な関わりを全面的に開陳することに抵抗があるからだろう。

これは、戦場での殺傷体験や植民地での現地民への睥睨蔑視から、地域社会や家族内での「愛国心」称揚運動への協賛、真珠湾攻撃成功時の歓喜や高揚感まで様々なバリエーションがあり、戦争の実相は、この側面から照射して初めて立体的に、そして生々しくエモーショナルに、つまりはrealizeされるのだが、

この側面のいわば能動的な戦争体験の開陳をしてなお問題発言たるを逃れるには、内容そのものへの引け目や悔恨の克服もさることながら、文学者の高度な表現スキルが要り、これも誰にでもできることではないのである。

往時の左翼的反戦運動は、「好戦的なアメリカへの反抗と、平和国家ソ連への共感」を共通認識にしていた。自国領土が戦場になった経験を持たず(真珠湾攻撃を受けたハワイは別として)、軍産複合体が産業基盤になっているアメリカがいつの時代も好戦なのは論を待たないが、

軍事力と警察力で周辺国家と自国民を圧殺していたソ連が「平和国家」だったなど、今から見ればお笑い草にしかならない重度の色眼鏡をかけ、そしてかけつづけて恥じることがない「左翼」など、自分には何者とも思えなかった。

普通に新聞や雑誌を読み、常識的な読書をしている層は、戦後民主主義を錦に御旗に掲げ、我が世の春を謳歌していた当時の左翼の脳天気さに、苦虫を噛み潰す思いをしていた。この左翼への庶民の反感は、連合赤軍等などの「過激派」による一連の犯罪行為や、学生運動の欺瞞や蹉跌、共産主義国の相次ぐ破綻などによって、根雪のように降り積もっていった。

日本国内での、現在の安倍政権の長期化につながる「反左翼」の潮目は、おそらく、1990年代に始まった「新しい歴史教科書を作る会」の運動から出てきたのだが、あれから二十年を経て、さらに今、潮目が変わりつつあるのを感じる。

それはかつての左翼運動の復活ではなく、真の意味での日本の「独立」への胎動だと自分は思っているが、これについては、稿を改めることにする。