仏教の本質

 昨日たまたま読んだ雑誌に、「悩んでいる人をなんとかするのが仏教の役目だ」という一節があった。その通りだと思う。「悩んでいる人をなんとかする」のが仏教の本来の役割で、死んだ人を弔ったり、死後の名前をつけたり、晦渋な人生哲学を振り回したりするのは、仏教の影であって、実体ではない。

そもそも生身のブッダは、現代でいうカウンセラーや臨床心理学者のような仕事をした人である。大勢に向かって哲理を説くのは、彼の一つの営業活動のようなものだった。ブッダが生きていた時代のインドは大きな教団があちこちにあり、それらに伍していくためにはある程度のパフォーマンスは必要だったことだろう。

ブッダの本領は、人生に苦しんでいる人にマン・ツー・マンで向き合って、その重い気持ちを少しでも軽くするところにあったと思う。そして「カウンセラー」としてのブッダの処方箋は二つある。ひとつは「諸行無常」、つまり、時間の流れは止めることはできず、形あるものはその形を永遠にとどめることはできないという現実の提示である。

もう一つは「小欲知足」、つまり、欲望が人間の苦しみの源であり、これを少なくすることが苦を軽くすることにそのままつながる、という教導である。

ブッダの「施術」の特徴は、直接事実を教えたり、いきなりあるベクトルに引っぱったりするのではなく、一見遠回りな道につれて行き、「患者」自らが真理・真実に気づき、自ら心安らかな道を歩めるように誘導するところにある。

ある仏教説話がある。瀕死の子供を救ってくれと半狂乱になってすがる母親に、ブッダは「死人が出たことがない家からケシの実を一粒もらいなさい。それを飲ませればこの子は助かるだろう」という。母親は必死になって家々を訪ね回るのだが、葬式を出したことがない家はとうとう見つからなかった。それによって、母親は、人間は遅かれ早かれ死ぬ運命にある、死は我が身一人の不幸ではなく、誰しもが対峙している普遍的な現実である、ということに思い至り、心が鎮まる。

この教導の見事さはどうだろう。この話は、ブッダがこの世で何をした人か、そしてそのメソッドは何であるかを、余さず表現していると思う。いうなれば仏教は、現実を直視することによって現実の苦しさを解消する方法を説く思考術であり、このときブッダが用いたのは、主観性の泥沼から客観性を命綱にして脱出する認知療法の一種だと言っても良いだろう。

意味を成さない念仏や、護摩を焚いての祈祷や、肉体を痛めつける苦行などから遠く離れたところにあるのが本来のブッダの立場だが、それらの非合理的な行為によって、現実に救われる心や命があるのならば、それもまた「方便」として肯定するのもまた仏教の懐の深さであり、プラグマティックな側面である。

さりとて、仏教が悩める心の処方箋として万能である訳ではない。しかし、仏教の本質が、人間の思考のありようを、教条やイデオロギーではなく「現実」の力で転換するところにあり、人間が「救われる」にはその観点がきわめて有効であることは、もっと知られていてもいいと思う。