いわゆる「アベノミクス」始末記

 今、日銀は、暗喩的に評すれば、「政府の言いなりに紙幣をする印刷所」に成り下がっているが、その「紙」はごく限られた特定の場所にのみ降り注ぎ多くの人には紙くずさえ行き渡ってない。

このいびつな構図を実感できていないか、もしくは「ごく限られた」場所にうまい具合に居座っている人たちが「アベノミクス」を支持している。ようするに、安倍政権は「脳天気」と「利権」に支えられている。

有能な人が総獲りし、無能な人はそのおこぼれで我慢しろ、という考え方が罷り通るならば、極論すれば「政府」などいらない。フランス革命前のような「アンシャンレジーム」の御代ならばいざ知らず、近代における政府の本質とは、強者から弱者への利得再分配の装置である。

この経済的利得の再分配装置は、「弱者」だけでなく、「強者」にもメリットがある。それは、弱者が恒産を持つことによって人心が鎮まり社会構造が安定になることは、ひいては強者自身の経済的安定の保証にもつながるからである。

それは「三方よし」(当世風にいえばWin-Win)の関係を築くことでもあるし、「寝首を掻かれる」恐れがなくなる、ということである。(過度に金持ちになることによって一般的に生じるとされる心理的不安定は、預かり知るところではない。)

なお、人間は一生を通して強者である続けることも弱者である続けることもない。ほぼ全て、どんな強者も弱者から人生を出発させ、その途中で束の間、強者に君臨することもあるが、最後には弱者に戻って人生が終わる。だから、強者にのみ利益誘導しようという態度の多くはいずれしっぺ返しを食らう羽目になる。「勝ちっ放し」の生涯など、人間以前に「生物」としてまずあり得ないからだ。

さて、「アベノミクス」。

貨幣の価値を薄めて政府の財源を増やしたり、社会の貨幣流通量を拡大することで商取引を増やし、ひいては景気浮揚につなげる「アベノミクス」の手法は一般に「貨幣数量説」といわれ、何の変哲もない、古典的な経済政策である。

そのアベノミクスの理論的支柱であった浜田宏一氏が自らの理論(デフレは貨幣の流通量の少なさに起因する現象である、との主張)の根本的な誤りを認めてから、すでに二年経とうとしているのに、安倍氏は「アベノミクスをさらにふかす」などという妄言を吐き続ける。

安倍晋三氏は、政治家として、「経済」と「金融政策」を選挙戦略としてフォーカスするまでのカンは働いたが、彼の能力が届く範囲はここまでだった。

円の価値を薄めて景気をよくするのなら、日銀に国債を引受けさせたり、日銀が銀行の国債を買い上げたりといった迂路を通すよりも、本当に空からセスナやヘリコプターで一万円札をバラまいた方が効果的だったかもしれない。ホームレスは一万円札を拾ったら貯めこまずすぐに使うだろうから。

しかし、そんなことをしたら、巷は一万円札の奪い合いの修羅場と化すだろう。だったら、一律100万円ぐらいを特に貧困層に重点的に渡したり、口座に振込むことが有効だったろう。しかしこういった「不労所得」は資本主義社会では道義上問題がある上に、そもそも「貧困層」の線引きがとても難しくなる。

結局「金融緩和して景気を浮揚する」には日銀や銀行を通して行う現在安倍政権が行っている方式以外見当たらないのだが、問題なのはこういった緊急避難的な手法を延々と続けていることだ。

国債頼り借金経営は国内で消化できているうちは大丈夫といわれ、実際或レベルまではそうなのかもしれないが、銀行の購入力が限界に達し、日銀引き受けが法律に抵触する範囲まで拡張すれば、国外で買ってもらう以外なくなる。外国人は国債購入を日本の財政を支えるためなど考えるわけがなく投機対象商品としかみない。

現代の後進国は借款など踏み倒しても平気の平左だが(安倍晋三が今いい気分で世界中にバラまいている円借款もまず返ってくるあてはない)、明治時代の施政者が、国債を売りさばくことと、それを返済することにいかに苦しんだかは、顧みられてもよいと思う。

借金は「返済できない」ことがわかれば、個人や法人はその信用を失う。これは他人からの借金であれ、「身内」からの借金であれ、基本的には同じことだろう。「同じではない。国家の財政は家計とは違うし、身内からの借金はいくらしても構わないのだ」式の説を縷々と述べる人がいるが、少なくとも自分にはそのからくりが、よくわからないし、そもそも常識的に考えて、そんなことはあり得ないと思う。

ここ何十年の政府が「財政規律」や「財政再建」を叫んできたのは、年々摘み上がる一方の借金がいつか酷い惨禍として国家に跳ね返ってくるといいう危機感からだった。そのアラートを「財務省の陰謀」という視点に矮小化し、財政出動による景気浮揚の錦の御旗のもとに決定的に反古にしたのが安倍政権だった。

彼は日銀に、おとぎ話の打出の小槌のように札ビラを印刷させ、国債という紙切れ(実際は紙ですらない電子データだが)と交換し、それを資源にして金融緩和を行った。それは確かに円安による輸出振興や、インバウンド景気に結びついたが、その富は大企業や一部富裕層に遍在化し、標榜したトリクルダウン(上流から下流への富の分配)は実現せず、経済格差は拡大し、円の価値は毀損し、借金はさらに積み上がった。

ただ、経済先進国間で、国民の間で経済格差が拡大しているのは、実は日本に限った話ではない。それは、資本主義という経済システムには常に労働力や資源を安価で「搾取」する対象が必要で、それなくしてサイクルは回らないという宿痾が深く関係している。

これまでその「搾取」の対象は後進国に向けられていたが、後進国の経済水準や生活水準が上がり、安価な労働力が確保できなくなるにつれ(中国がその典型だが)、先進国はその搾取の対象を国内に向けざるをえなくなった。

ありていに言えば、国内の(悪質な)経営者は、自国民を安価な賃金で極限まで絞り上げることをするようになったのである。この様相は、搾取の対象が「グローバル化」する前の19世紀の工業先進国のありようと相似形をなし、かつてはその状況からマルクス主義が生まれたのであるから、現在先進国で「リベラル」の名のもとに左翼やそれに親和性のある思想が結集しつつあるのも、道理なのである。

右翼や左翼といった経済・政治思想の立ち入るのはここまでにするが、この「国内搾取」構造のおよそ100年を経ての「再構築」がもたらすのは、いわゆる「中産階級」の崩壊である。

中産階級とは巨大な経済の生産と消費のステージであり、人口のゆりかごであるから、その崩壊が意味するのは、いうまでもなく生産と消費の縮小と、少子化である。模式的に書くと、資本家は結婚と離婚を繰り返し株の含み益で愛人と月旅行にしゃれ込むことが出来る一方で、低賃金労働者は結婚し子をなすことができない、という構図になる。

そして、それらの結果はすべて「あくまで自己責任(努力や才覚の不足)」であり、それを難詰するは「しょせんは負け犬の遠吠え」ということにされる。

この言葉には暴力的な威力があり、言われた方はひとまず黙るしかないが、黙れば黙るだけ鬱積するものが地中のマグマのように膨れ上がっていく。そしてこのマグマは、必ずいつか噴出せずにはおれない性質のものだ。

この問題は、時間軸で言えば歴史的、空間軸で言えば構造的なもので、当然、一安倍晋三のせいではないし、誰にも解決への明晰な解はないし、あったとしても実行には大変なハードルがあるのだが、一つの方向性になりえるのは、経済弱者も徴税対象になる消費税増税より、富裕層や企業がターゲットになる所得税法人税増税と、行き届いた社会保障制度による再分配ではないだろうか。

けれども、「選挙に強い」だけが与党内での求心力維持の頼みの綱であり、あらゆる増税にまともに向き合おうとしない安倍政権が、そんな地雷的案件に取り組もうとするはずがない。

また、「日本は世界最大の債権国それに政府資産を足し、貸し金と借金を相殺すればバランスシートはそんなに悪くないはずだ」とかいう訳知り顔の議論を聞いたことがあるが、こういう言いぐさは不見識の極みであって、仮にもし本当にそうだったにしても、それは不幸中の幸いと位置づけるべきものであって、だからこのまま野放図は財政出動国債頼みの金融緩和を続けていいんだ、という法はない。

そもそも、政府の持つ債権や資産は、先人の積み上げた遺産であって、その「担保」があるからといって野放図に借金を重ねていいわけもない。

ようするにここ何代かの政府は、先人の遺産を担保にして借りた金のツケを未来に回すという自転車操業ですらない不道徳な国家経営を、一抹の心の痛みを抱えつつ継続してきたのだが、安倍晋三はその心の痛みすら覚えず、財政規律を決定的に破壊したのだ。

「功罪相半ば」という言葉があるが、安倍政権の経済政策にもこの言葉は当てはまり、そして、これからは「罪」の部分がいよいよ誰の目にも明確になっていくだろう。しかしその「尻拭い」の役目はあまりに重すぎて、どこにも担い手は見あたらない。