ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 「難破船 乗組員の救助に努める漁船」

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 以下はまったくターナーとは関係ない話。 

 最近子供と日本史や地理の話しをすることがたまにある。大人相手だと妙な術語を振り回して煙に巻くことも相手によっては可能だが、子供相手に話をするときは、どんな子供でも、そんなヤクザな手口は通用しない。

子供は未知の出来事や情報にぶつかってそれを瞬く間に解釈し血肉にするプロフェッショナルだから、明確な定義を持つ言葉を論理的に組み立てなくては一切伝わらないし、そもそも途中から話を聴いてもらえない。

だから、自分の日本史の乏しい知識を総動員して、しかも論理的に、これ以上かみ砕けないほどかみ砕いて話すわけだが、その過程で、日本史の中で自分が何を理解していたのか、どこを理解できていなかったのかを目の当たりにすることが多い。

人に教えることは自ら学ぶことだ、という古びたフレーズに近い感慨だが、もうすこし正確に言うと、人に教えることは自らをテストすること、ということになるだろう。

さて、その「テスト」の結果だが、子供と話してみると、自分自身、歴史知識が相当怪しいことに気がつくことが多い。これまでの人生で、歴史に関するテキストや映像などには人並み以上に接してきたつもりではあるが、いまだに大局観というか時系列の歴史観がほとんど構築できていないことにいささか呆れる。

例えば、江戸幕府の政治について。

徳川時代の政治史は、三代将軍家光を頂点として、そののち緩やかに退行していくのが大筋の流れだが、次の登場人物、五代将軍徳川綱吉側用人柳沢吉保勘定奉行の荻原重秀の緩和的、放埓的な経済運営、政局対応を、六代家宣のオブザーバーだった新井白石が緊縮財政に方針転換するのだが、その反作用で世間の景気が悪くなった。

そこに登場するのが、八代将軍吉宗だが、吉宗が幕政の何を改革したのか、あるいは改革しようあとしたのかが、自分は実はよくわかっていない、ということがわかった。

白石が緊縮財政をとったのだから、吉宗が金融緩和(具体的には金銀の純度を下げて貨幣発行量を多くする)と財政出動に舵を切ったのならまだわかるが、吉宗も採用したのが白石と同じ緊縮財政では、いったい何を改革しようとしたのかよくわからない。

よく言われている、青木昆陽によるサツマイモ栽培や、目安箱設置、大岡裁きなどは、あまり本質的ではない(とは言い過ぎだが)政治的アクションである。要するに吉宗は、新井白石のようなどこの馬の骨ともわからない成り上がりが幕政を動かす側近政治を本来の将軍新政に戻したかっただけではないのだろうか。つまり彼は中世でいう後醍醐天皇のような存在だったとも観える。

ただ、考えてみれば、財政出動による景気浮揚という発想が世界史的に一般化するにはケインズの登場を待たなくてはならなかったのだから、この時代にそういう発想ができた人は、理論の援けを借りたのではなく自らの直観に頼ったケースが想定される、そんなことができる人はまさに「天才」と言ってよく、その天才としか言いようがないのが田沼意次であった。

田沼意次は歴とした老中だが、もとをたどれば下級武士の家柄で、才覚だけで大名にまで上り詰めた人物である。そういう意味では新井白石にやや似ているが、白石と決定的に違うのは、その酸いも甘いもかみ分けた、融通無碍の、近代的な政治センスである。しかし、新井白石が将軍吉宗の治世で落剝したように、田沼も不遇な晩年を過ごすことになる。その後の幕政改革には見るべきものがない。松平定信も、水野忠邦も、うわごとのように「質素倹約」を叫ぶだけであった・・・。

こうして眺めてみると、改革者として本当に成果を上げたのは賄賂飛び交うダーティなイメージを後世に持たれてしまっているいる田沼意次だけではないのか、という気がする。それにしても、田沼意次がなぜあのような近代的発想ができたのかが、気になってきた。このことについて明確な解答がなされている本があれば、是非読んでみたいと思った。

田沼意次のことなど、ここ数年意識に上らなかったのだが、子供と話していると思わぬ触発を受ける。