「政治家」とは何か

 安倍氏拉致問題を存分に政治利用したが、当初の動機はそれなりに純粋だった。小池氏も豊洲移転問題をはじめから政治利用しようと企んだわけではなく、当初はそれなりの義憤に駆られていたのだろう。なんとなれば政界という魔境には、ピュアな初心を歪ませ、穢し、傷物にする因子が、宿命的に仕込まれているようだ。

「男子一生の仕事」という古い言い回しがあり、それが究極的に指向しているのは「政治」である。つまり権力(無条件の強制力)を得て大勢の人々を動かし、社会的に何かデカいことをするのが「男」のするべき仕事で、それ以外は採るに足らない、という価値観である。

大勢の人を動かして事をなすには、それなりの知性と意志と度量がいる、そういうものを持つ、あるいは持ちたいと志した人たちが目指すもの、それが政治家だったはずだ。かつては。

しかし現代の「政治家」は盛りの過ぎたタレントや芸人、まともな仕事がない弁護士、出世レースから落伍した官僚、スポイルされた二代目・三代目、組織から見限られたキャスター、果てはニートやリストラされた会社員まで、要するに大なり小なり「敗残者」のリベンジの目標と化している。

これはある意味「失敗してもやりなおしが利く社会」の実現を地で行っているともいえるが、元来、社会の領導者たるべき政治家が、辛うじてセーフティネットで救われた手負いの小動物たちになっている現状は、果たして健全だといえるだろうか。

それでもまだ地方自治体の代議士は、確固たる地域基盤がある地方名士や地域実業界の重鎮たちが、その声望に推されるかたちで(好むと好まざるとに関わらず)地位に就いているケースが多いような気がする。そしてこういう人たちが、本来の意味での政治家らしい政治家ではなかろうか。

人類史が狩猟採集社会から農耕牧畜社会に移行するにあたって、その成果物の生産と貯蔵と分配を合理的に進めるうえで不可欠なものとして政治権力が登場した。政治権力とは、共同体維持と発展のために生成し、その運用者が「無私」であることが大前提である。この政治哲学の根本原理は、日本では細々ながら明治時代までは息づいていた。

象徴的な書き方をすれば、持てる有形・無形の資産すべてをおおやけの為に注ぎ込んで、終いにすっからかんになって落剥してもそれを多とする崇高な奇人、それが原理的な政治家の姿であり、そのリスクを背負ってこその「男子一生の仕事」だったのである。

「そんなヤツ、昔だっていねえよ」と思われるかもしれないが、開き直っていえば、そういう人間が実在したかどうかなど、この際問題ではない。そういう価値や理想がかつて確かに息づいていて、その圧迫が大なり小なり生身の政治家の行動をがんじがらめに縛り、あるいは、力強く背中を押していたという事実が重要なのである。