「アイヌ」に関する覚え書き

 民族の本質は血(あるいは人種)よりも、言葉と文化だ。それを観光資源ではなく日常生活で維持している人間がいなくなれば、その民族は「滅んだ」といわざるをえない。誠に痛ましいことではあるが。。

香山リカアイヌ問題「反論」は無意味な駄文
http://nikkan-spa.jp/824201

稲作をする弥生人が日本にくる前に、日本列島津々浦々にいた先住民が縄文人だが、彼らは弥生人(ヤマト民族)から熊襲だの隼人だの蝦夷だのと蛮人視され征服された。その純粋な「蝦夷」の北海道での生き残りがアイヌだとされる。

ただ蝦夷は「民族浄化」的に皆殺しにされたのではなく、弥生人との混血によって人種的な純血性を徐々に失っていったわけだから、逆に言うと、日本人ならほぼ例外なく縄文人蝦夷熊襲・隼人)の血を継承していると観ることができる。

四方を海に囲まれ、しかも国土のほとんどが緑豊かな山岳地帯である日本は、平野で水びだしの雨季とカラカラの乾季が必要な稲作栽培より(水田や乾田は、それを人工的に作り出したもの)、狩猟採集生活に至適な自然環境にある。

縄文文化とは日本風土に根ざした狩猟採集生活を基本とし、言葉は悪いが「原始人」的なものだから、アイヌの民族特性や生活文化は、もともと近代化とともに衰微する要素を内包していたのだ。

その近代化の趨勢を従容として順応するか、あくまで伝統の保守に尽力するかは、同じ「アイヌ」でも、きっと温度差があるのだろう。

ただ、過去の喪失を惜しみ、未来への継承を志向することは、人間を人間たらしめている重要な要件であることは間違いないように思われる。その志があるかぎり、「アイヌ」的なものがたとえ日常生活や言語生活において見られなくなっても、けっして滅んだわけではないのだ、ともいえるかもしれない。

ここからは妄想話。日本神話で支配者が入れ替わる話といえば、ヤマトタケルの「マツロワヌ人々」征伐と、大国主命からアマテラスへの国譲りの二つがあるわけだが、これは二つと弥生人縄文人にとって代わった史実の暗喩ではなかろうか。となれば、大国主命縄文人蝦夷熊襲)となるのだが。。