★大東亜戦争肯定論(林房雄)【抜き書き】 

私たちが平和と思ったのは、次の戦闘のための小休止だったのではなかったか。徳川二百年の平和が破られた時に、長い一つの戦争が始まり、それは昭和二十年八月十五日にやっと終止符を打たれたのではなかったか。

戦争教育なしには戦争は行えない。が、教育以前に戦争があるのではないか。すくなくとも、戦争の予感、またはその萌芽がなければ、戦争教育は行われない。古代からの歴史に現れている戦争好きの征服者や暴君の背後に、民族または部族の「戦争の必要」があったことを見落としてはならない。

(タイトル)
大東亜戦争百年戦争であった
黒船はペルリが最初ではなかった
吉田松陰の「幽囚録」
橋本左内の「日露同盟論」
島津斉彬の「大陸出撃策」

開国派もまた攘夷派であったのだ。「つまり開国は、攘夷のための実力をたくわえる手段に他ならなかった」攘夷派の志士たちが後に開国に転向したのは、攘夷を捨てたのではなく、それを開国論という迂回戦略に発展させたのだ。

国を強くするためにはまず民を富ませなくてはならない、と斉彬はいった。「武士も百姓も芋ばかり食って、忠義だ攘夷だとさえずっていてもなんの役にも立たぬ。農業と工業と教育の三つがそろわねば、国の本は立たない。蔵方にいくら金銀を積んでも、土民の生計が豊かにならねば、富国も強兵もない」

「十九世紀の西欧においては、白人民族同士の戦乱状態が常習的に行われており・・東方を望めば、瓦解した諸帝国が、トルコから中国にいたるまでアジアの全大陸にその残骸をならべていて・・いたるところの原住民らは、羊のごとく従順にその毛を刈り取らせ、ただ黙々たるのみ。敢えて反抗しようとはしなかったのである。日本人だけが全く違った反応を示した。しかし、日本人はきわめて珍しい除外例であり、かえって原住民は反抗しないという一般法則を証明しているにすぎないのだ」(トインビー)

封建制度が存在し発達していたのは西ヨーロッパと日本だけだった。(ライシャワー

他の東洋諸国では開国はすなわち降伏であり、攘夷の反対物だったが、日本の場合はそうではなかったところに特色がある。

欧米列強の圧力は強かった。それを考慮の外においては、明治維新という複雑な変革は理解できない。いや、維新だけではない。それに続く、征韓論、台湾征討、西南戦争、条約改正運動、自由民権運動の大アジア主義への急展開、日清戦争と三国干渉、日英同盟日露戦争韓国併合満州国建国、日支事変と太平洋戦争−すなわち、私の言う「東亜百年戦争」の全課程の理解は不可能である。これらはすべて強力な国際圧力の中で起こった一連の事件だった。列強が日本に加えた強圧は明治維新によって解消したのではなかった。日本人の必死の反撃にも関わらず、この強圧は年とともに増大し、組織化されて、太平洋戦争の直前にその頂点に達したのだ。

戦前のマルクス主義者にとっては、一切の民族的なものは手にふれるも汚らわしい汚物であり、無視するか避けて通るかが常識だった。わたしもまた当時のマルクス主義学生だったから、この空気はよく知っている。左翼はひたすらな「インターナショナリスト」で「日本的なるもの」を毛虫以上に嫌った。愛国者たることを自ら拒否して、日本的なるものの考察は右翼学者に任せて顧みなかったといっても過言ではない。

明治維新は、英仏の謀略と圧力によって成立したのではない。この謀略と圧力に必死に抵抗したところに成立した。朝廷側はもちろん、幕府の首脳部もまた、これを阻止し、拒絶したところに成立したのだ。

「自分の攘夷の策は、今日深く外夷と結ぶにあり。涙をのんで、外夷と手をにぎるのだ。ひろく海外諸国に留学生を送り、外国人を雇い、国産を開き、断然と大いに国を開くべし。かくしてすみやかに軍備を設け、兵を練り、名分条理を踏みにじって攻めてくる凶悪の外賊を討つべし。近い将来必ずその時が来る。ロシアも恐るべきだが、アメリカもまた油断ならぬ。」中岡慎太郎

政治家は当面の現実を無視できない。口では百年の大計を説いていても、現実の政策としては常に十年の小計を実行しなければ、政治家は失脚すうする。

天皇制は占領軍によって変形されたが、天皇制は生き残った。なぜ残ったか。その理由はまだ理解できない。ただ、天皇以上の絶対権力者だった連合軍最高司令官も天皇の根本には手を触れることができず、これを残していったという事実に、まず驚き、しばらく呆然とし、やがてそれを喜んでいるというのが、日本国民の現在の心境ではあるまいか。この点が重要である。日本人は天皇の変形を気にしない。少なくとも二千年の長い歴史の各時代に天皇制はさまざまに変形し、しかも変わることなく存続したという事実を日本人は知っている。

私は東京裁判そのものを認めない。いかなる意味でも認めない。あれは戦勝者による戦敗者にたいする復讐であり、すなわち戦争の継続であって、正義にも人道にも文明にも関係ない。明らかに、これらの輝かしい理念の昂然たる蹂躙であって、戦争史にも前例のない捕虜虐殺であった。かかる恥知らずの「裁判」に対しては、私は全被告とともに、全日本国民とともに叫びたい。「われわれは有罪である。天皇とともに有罪である」と。自分は絶対に戦わなかった、ただ戦争被害者だと自信する人々は、もちろんこの抗議に加わらなくてもいい。あの戦争の後に生まれた、若い世代にも責任はない。だが、私は私なりに戦った。天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は日本国民とたたかった。「太平洋戦争」だけではない。日清・日露・日支戦争を含む、「東亜百年戦争」を明治・大正・昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った。男系の皇族もすべて軍人として戦った。「東京裁判」用語とは全く別の意味で「戦争責任」は天皇にも皇族にもある。これは弁護の余地も弁護の必要もない事実だ。

天皇制は明治に入って初めて武装したのではない。しかし、武家政治の約七百年間武装なくして存続したのもまた事実である。この七百年間の非武装を見て、天皇の本質が平和な祭司であると規定するのは性急すぎる。ただし、君主が武装することなく、七百年も存在しうるなどということは、エンペラーやカイザーの場合には絶対になかったことだ。武力の衰弱は王朝の衰弱であり、軍備の消滅は王朝の消滅であった。なぜ日本の天皇制はその例外であったのか。この「神秘な性格」の秘密は、民族学文化人類学が民族の深層意識現象として解明してくれるであろう。

明治以降に日本が行った諸戦争の前半は民族独立戦争であり、解放戦争であっても、後半は帝国主義的戦争であったという折衷意見がある。この分析は、右派にも左派にもある。そんな簡明に分析できたら話は簡単であるが、それでは最近の百年間の歴史は説明できず、何の実りももたらし得ないことがわかった。右のような折衷意見は、解剖学者が解剖に専心して生きた人間を見失うこととよく似ている。
歴史は人間がつくったものだ。あらゆる人間的なものー大矛盾と小矛盾、過失と行き過ぎ、善意に発した悪行、誤算と愚行、目的と手段の倒錯、予想しなかった傷害による挫折とわき道、そのほか、ありとあらゆる人間的弱点を含みつつ進行する。歴史家はまず人間学者でなければならないのだ。分析と解剖に終始して統合を忘れることも禁物である。分析だけで統合できない者は、死体を切り刻む解剖屋にはなれても、歴史家にはなれない。わずか百年間の日本歴史を統合的に解釈できなくて、何が歴史家であるか!

戦争行為そのものの中には、正義も道徳もあり得ない。あるものは、人間同士の殺し合いだけだ。にもかかわらず、闘争者自身は、「正義の呼び声」を自聴して、進んで戦争に突入することがしばしばある。一つは自己防衛のための戦争であり、一つは宗教的狂言または使命感による「聖戦」の場合である。どちらも「勝敗を度外におき、犠牲をかえりみることなく」戦われる。どんな戦争でも、勝てば勝者の獲物として戦利品がつきものであるが、自衛戦争と聖戦では、戦勝利得は「度外におかれる」のが普通だ。そのことが理想家たちに戦争を肯定させる。

戦争は常に正気の沙汰ではない。戦争とは狂気の産物なのだ。日清戦争の狂気よりさめたは内村鑑三は「戦争の使徒」の役割を自ら放棄したが、彼の非戦論も日露戦争を阻止することはできなかった。のみならず、彼に変わる戦争イデモローグとして、陸かつ南、岡倉天心をはじめとする多くの日本主義者が登場して、十年前の内村と全く同じことを叫び始めたことに歴史家は注目すべきである。

八月十五日に敗戦において、幕末以来の日本の抵抗と挫折はついに完成されたと言っていい。敗戦二十年後の現在から「歴史家の目」でふりかえれば、「東亜百年戦争」はそもそも初めから勝ち目のなかった抵抗である。しかも戦わねばならなかった。そして日本は戦った。何という「無謀な戦争」をわれわれは百年間戦ってきたことか!

どの戦争も、敵と味方の戦力を慎重に計算し、周到に「共同謀議」したら、とてもやれる戦争ではなかった。利益より犠牲の多い戦争であることは、当事者の政府と軍人には最初からわかっていた。にも関わらず、始めなければならなかった。

「我が輩は断言する。今度の戦争(日露戦争)は必ず勝つと高をくくって始めた戦争ではない。勝つ勝たぬは、第二の問題として、まずもって万止むをえぬから始めた戦争だ・・・すなわち存亡を賭しているから、主観的には決して負けぬ気でも客観的には高をくくって安心してはいられなかった。手に汗を握って戦局の経過に注意していたのが事実である」(二葉亭四迷

東京裁判の被告席には、ニュールンベルグ裁判ナチス被告席とちがい、「開戦への決断に関する明白な意識をもって」(丸山真男)いた者は一人もいなかった。すべて、「何となく、何者かに押されつつ」言い換えれば和辻哲郎の言う「日本の悲壮な運命」に押されつつ、「ずるずると戦争に突入した」ものばかりであった。まさに「驚くべき事態」である。

あの復讐裁判の被告席には、責任を押しのけてあわよくば死刑をまぬかれようなどと思っている卑怯者は一人もいなかったはずだ。できれば戦争責任を自分ひとりで引き受けてもいいと覚悟していたものが大部分であろう。だが、どう探してみても自分の中には開戦責任に所在が発見できない。そのために、検察官の耳には被告席の答弁はすべて「十二歳の子供」の答弁に聞こえ、これを検察官席から思う存分嘲弄することができた。丸山真男もまた裁判記録を引用することによって、被告たちを笑うことができた。
 これが真相である。

国民は、市民は、どこの国でも平和な日常生活を愛し、求める。国民の好むものは、自己と家族のための平和な日々の勤労と娯楽である。一つの困難な戦争が終わったとき、平和の回復にもっとも歓喜するのは国民大衆・市民大衆である。「百年継続するひとつの宿命的な戦争」などという観念は平和な市民のもっとも嫌悪する観念である。にもかかわらず、明治の日本国民の大多数は日清・日露両戦役の休戦処理には不満と憤慨を抱き、一種の政治暴動を起こして、次の戦争への期待を表明した。「東亜百年戦争」を半ば意識せざる予感であったといえよう。

満州事変」「日中戦争」「太平洋戦争」が政府と軍部首脳部の野心と侵略主義と「共同謀議」によって発生したと説明する「学問的考証」は、笑うべき検討ちがいにすぎない。「主戦論」はすべて民間から発生した。大東亜戦争においては、これが「青年将校」たちに影響し、再々度のクーデター計画となり、ついに軍部上層と政府を動かしたのであった。

政治革命が聖者によって、実現された試しはない反逆者と無法者タイプが大きな役割を演ずる。そして、反逆者と無法者の大多数は革命成功後に冷酷無惨に処刑される。革命とは決して教壇の紳士教授諸氏の好みに合う歴史現象ではない。

日本にはムッソリー流のファシズムも、ヒトラー流のナチズムもなかった。ただ百年の歴史を持つ右翼運動があった。大東亜戦争中にナチズムの直訳的輸入の試みはあったが、これは日本に根をおろさなかった。たとえ長い年月をかけても移植は成功しなかっただろう。

私は「東亜にただ一国だけ生き残った日本という島国が途中から帝国主義侵略国家に変質してしまったために、世界中のデモクラシー国家に憎まれ、袋叩きにあい、たたきのめされて、恐れ入り、目下デモクラシーと平和主義を勉強中だ」などという俗論を否定するために肯定論を書いているのだ。

日米冷戦は、明治三十八年のポーツマス講和会議から始まった。その後の米国の対日政策、シナ門戸解放要求、度重なる軍縮会議、日本陸海軍力の強制的制限、幣原外交の苦悶と混迷、軍部の抵抗、右翼の活動、日本防衛のための「自衛線」「生命線」の強引な設定としての満州事変と日支事変ーこれらすべては太平洋戦争の原因ではなく、日露戦争の集結と同時に事実上開始された日米戦争の結果であったのだ。

アメリカがこれを太平洋戦争と呼び、日本がこれを大東亜戦争と呼んだのは、ただの思いつきではなく、それぞれに歴史的理由があった。アメリカの理想は白い太平洋の実現であり、日本の理想は「大東亜共栄圏」の建設であった。アメリカ人が太平洋戦争と呼ぶのは結構だが、日本人は堂々と大東亜戦争と呼んだほうがよろしい。


アメリカ人は、指導者も国民も、「白い太平洋」の実現を信じて、日本降伏後もなお、その「太平洋戦争」を継続している。「デモクラシーと言う宗教」の狂信者として、アジアと世界に対して十字軍的神聖戦争をいどんでいるかのように見える。朝鮮戦争の大犠牲も、ベトナム戦争の人食い沼も、彼らを反省させ立ち止まらせることはできない。

どの国の植民政策も、その国と国民のためのものであって、被支配民族のためのものではなかった。日本の韓国支配も例外ではない。なるほど、アジア的封建社会に近代的土地所有制度を確立し、鉄道を敷設し、港湾を造築し、禿げ山を緑化し、水利事業を興し、稲の品種を改良し、産業を興し、貿易額を増やしたのは事実である。しかし、それによって朝鮮民族の生活が向上したどころか、農民は土地を奪われ、日本や満州流浪の民となり、あるは山奥に入って火田民とならねばならなかった。(金三杢)

日清・日露の役において、伊藤博文以下の政府当路者が常に不戦論、開戦尚早論の弱腰をとり続け「恐清・恐露病者」を呼ばれたことは諸家の明治史が示すとおりである。日露戦争直前においても、幸徳秋水の「帝国主義論」はその非戦論故に公刊を許されたが、内田良平の「露西亜亡国論」はそれが主戦論であるが故に発売禁止された。政府の弱腰を叩いたのは、常に民間の「日本主義者」であり、「対外強硬論者」であった。

火事を未然に防ぎ得た者は賢者である。燃え始めた火事を身を挺して消し得た者は勇者である。だが、この百年間の日本人には、その賢者も勇者も生まれ得なかった。なぜなら、東亜百年戦争は、外からつけられた大火であり、欧米諸国の周到な計画のもとに、多少の間隔をおきつつ、適当な機会を狙って、次から次へと放火された火災であった。日本人は火災予防の余裕を与えられず、不断に燃え上がる火災の中で、火災そのものと戦わねばならなかった。そのために、自身悪質な放火者と間違えられ、非難もされた。多くの日本人が焼死した。鎮火の後、生きながらえた勇者もほとんどすべて全身に大やけどをうけた。

五一五事件の背後に大川周明がおり、二二六事件事件の背後に北一輝がいた。

清帝国の老化と無力化により、日本という小国は、ありとあらゆる無理を重ね、武装せる天皇制という戦争体制を創出し、強化することによって、いやでも東亜諸国を「代表」して、戦闘には勝ったが戦争には勝てなかった百年戦争を戦い続け、完敗して戦場を去り、戦士の鎧を脱ぎ捨てた。日本という戦士は今、歴史の舞台裏で休息している。約百年来、はじめての休息である。今初めて、家庭を振り返り、産業と内需と貿易の充実を考え、内政を整え、近代化に向かって進む余暇を与えられたのだ。

敗戦直後の日本の風景は、百年続いた戦争のため、政治も経済もでこぼこだらけだった。制度も道徳も習慣も戦争用のものだけで、平和な日常生活に役立つものは一つもなかった。人の住む家はなく、庭と畑は焦土となり、人心も荒れ果てて、この回復には少なくとも一世紀はかかるとわたしもほとんど絶望した。・・十年すぎた時には、私が一世紀と計算した復興がすでに緒につきはじめたように見えた。朝鮮戦争以後の世界情勢の急変も日本の復興に幸いしたようだ。今は敗戦後二十年。この繁栄は、たとえその裏にわれら老世代の気に入らぬ諸現象を伴っているとしても、この復興を二十年前にだれが予想し得たであろうか。

第一次世界大戦において、なぜドイツ側に荷担しなかったのかと(孫文が)いったのは、アジアの真の敵は連合国側のアメリカとイギリスであることを孫文が知っていたからだ。(しかし、日本はアメリカとイギリスに荷担し、中国を敵にする機運をつくってしまった)

パナマ運河開通以後のアメリカのアジア政策は「白い太平洋」太平洋を白人の海にする構想の上に立っていた。アジアにおける唯一の独立国として「白い太平洋」の実現をさまたげつつ成長する日本に対するアメリカの「不信」は、最初から決定的なものだった。

東亜百年戦争は、満州事変によって最後の活動期に入った。それは戦争なのだ。戦争は独り相撲ではない。相手がいる。漢民族ナショナリズムという強敵の背後には、米英露という、さらに強大な敵が控えていた。ひとたび「独走」しはじめた関東軍は日本政府の不拡大方針を無視し、政府を引きずって「暴走」をつづけざるを得なかった。だれの罪でもない。犯人を見つけたいなら、「歴史」を逮捕するがよい。

「世界最終戦論」は彼の陸大在学中に着想したもので、世界戦争史の研究から生まれた結論である。一言で言えば、戦争兵器の急速な進歩発達のため、やがて、もしそれが使用されれば人類絶滅のおそれのある強力兵器が発明され、その結果として戦争は不可能となり、世界の統一と平和が実現するという予言であった。